
第一章 いつものキャンプ

「おーい、カズ!また俺に重いの押し付ける気だろ!」
裕太の声が、木々の間を抜けてキャンプ場に響き渡った。
俺は車のトランクを開けたまま、重たいクーラーボックスの取っ手を両手で掴んでいた。夕方の空気はまだぬるく、汗が首筋を一筋つたった。何回目だったっけ、このメンバーでのキャンプ。小学校の頃から数えたら、もう二十年以上になる。お互いの顔に皺が増えて、腹も出てきて、それでもこうして集まってる。
「裕太、お前毎回それ言うよな」
ヒロが眼鏡をクイッと上げながら苦笑いした。毎回同じ台詞で、毎回ヒロが同じように突っ込みを入れる。そこまでがワンセットだ。もう三人とも分かっていながら、それでもやる。たぶんそういうのが、俺たちにとっての挨拶みたいなものなんだろう。
「カズだって仕事で疲れてるんだから、少しは気ぃ遣えよ」
「俺だって忙しかったんだよ!昨日も残業で、終電一本前でやっと帰ったのに……」
裕太はぶつぶつと文句を言いながら、それでも結局は自分でテントの荷物を抱えて歩き出した。本当は嫌じゃないんだ、こいつ。文句の言い方に、どこか楽しそうな弾みがある。
夕方のキャンプ場。隣のサイトでは若い夫婦が慣れた手つきでペグを打ち込み、その向こうでは子どもたちが走り回っている。どこかで薪が爆ぜる音がして、焦げた松の香りが漂ってきた。いつもの光景のはずなのに、今日は妙に体が重かった。疲れているというより、何か胸の奥に小石でも詰まっているような感じ。
ユナが今朝、泣いていたせいかもしれない。
「そうだ、娘ちゃん、もう四歳だっけ?」
裕太が缶ビールをプシッと開けながら聞いた。
「ああ、ユナな。最近『パパ、お仕事行かないで』って...」
俺の声が少し震えた。あの子の涙顔を思い出すと、胸がキュッとなる。
「毎朝泣かれるとさ、こっちも泣きそうになるんだよ」
俺もクーラーボックスに手を伸ばし、キンキンに冷えたビールを取り出しプシッと開けた。
「やっぱいいよなあ、子どもがいるっていうのは」
裕太は遠くの山を見つめながらクスっと微笑んだ。
「俺のとこは娘が二人もいて、もう毎日戦争状態よ」
と言いつつも、まんざらでもなさそうだ。口の端が緩んでる。
「贅沢な悩みじゃん」
ヒロも缶を傾けながら言った。眼鏡の奥の目が、少し疲れていた。
「うちも似たようなもんだけど」
「分かるぅ、でもそれが良いんだよな!」
夜が更けるまで、俺たちは他愛もない話をした。職場の愚痴、嫁さんの愚痴、でも気がつけばいつも家族の話に着地している。三十代後半になった今でも、こうして集まると、どこかすっと肩の力が抜ける。学生の頃に戻った、とは少し違う。あの頃より俺たちはずっと疲れてるし、膝も痛いし、翌日の二日酔いも心配だ。でも、こいつらの前では何かを取り繕わなくていい。それがただ、楽なんだ。
焚き火が赤くなって、燃えさかる炎が少しずつ落ち着いてきた頃、炎の中心から細い煙が一筋、真っ直ぐに夜空へ上がった。
ヒロがポツリと呟く。
「そろそろ寝ようか」
「俺、明日は早めに帰らないと優香に殺される」
「俺もだ。嫁に『また男同士で遊んで』って嫌味言われてるし。ほんと毎回」
三人で低く笑いながら、テントに潜り込んだ。寝袋のファスナーを引き上げる音がして、焚き火の余熱がまだかすかに漂っていた。
暗闇の中で、俺はユナのことを考えていた。
明日帰ったら、まず抱きしめようと思った。ただそれだけを考えた。あの子の小さな体を両腕で包んで、苺の甘いシャンプーの匂いをいっぱいに吸い込もうと思った。「お土産買ってきたよ」と言えばきっとぱっと顔が明るくなって、泣いてたことなんか忘れたみたいに笑うだろう。あの笑顔が見たかった。それが、今の俺にとって一番大事なことだった。
焚き火の音が、遠くなっていった。
第二章 午前八時の写真

翌朝の管理棟は、昨夜の焚き火の喧騒が嘘みたいに静かだった。
テーブルに広げたコンビニのおにぎりとカップ味噌汁。豪勢とは言えないが、外の空気の中で食う飯はそれだけで旨い。木漏れ日が窓から斜めに差し込んで、埃がゆっくりと舞っていた。鳥の声がどこかで聞こえた。夏の終わりに差しかかった山の朝は、肺の奥まで澄み切っていた。
「うわ、でっかい時計だな」

裕太が最後のひとくちを飲み込みながら、管理棟の奥を指差した。
そこには確かに、場違いなほど大きな古時計が置かれていた。重厚な木のケース。黒ずんだ真鍮の文字盤。そして、ゆっくりと、あくまでゆっくりと、左右に揺れる振り子。
カチ、コチ、カチ、コチ。
規則正しいその音が、静かな朝の空間に低く響いていた。管理棟の安っぽい蛍光灯の光の中で、その時計だけがなぜか別の時代から切り取られてきたような、妙な存在感を放っていた。
「なんか……威圧感あるな」
思わずそう呟いた。時計というより、なんだろう、裁判官みたいな。じっとこちらを値踏みしているような。
「記念写真撮ろうぜ」
ヒロが提案した。眼鏡のフレームをクイッと直しながら、どこか悪戯っぽい目をしていた。
「せっかくだし」
「いいね」
俺も頷いた。
「毎回同じ場所で撮ってるし、たまには違うところで」
思えば、このキャンプ場に来るたびに三人で写真を撮ってきた。最初は二十代の頃で、三人とも独身で、腹も出ていなかった。それがいつの間にか既婚者になり、父親になり、写真の中の顔に少しずつ疲れが滲むようになった。でも写真を撮るという行為だけは変わらない。俺たちがまだここに繋がっていることを確かめるような、そんな儀式みたいなものだ。
俺たちは古時計の前に横一列に並んだ。裕太が真ん中、俺とヒロが両端。スマホをその辺の棚に立てかけて、タイマーをセットした。十秒。三人で肩を組む。裕太の体がやけに温かかった。
「はい、チー……」
カシャッ。
シャッター音が管理棟に小さく反響した。
俺は何となく、そのまま視線を時計に向けた。
午前八時、ちょうど。
短針と長針が、真上で重なっている。
その瞬間、何かが——。
うまく言えない。体が揺れたわけでも、音がしたわけでも、光が見えたわけでもない。ただ何か、世界の薄皮が一枚めくれたような、そういう感覚。水の中に指先を入れたときの、あの冷たい抵抗感に少し似ていた。
そして振り子が——遅くなった。
気のせいじゃない。確かに、カチ、コチのリズムが、ほんの少しだけ間延びした。一瞬だけ。でも確かに。
「……気のせいかな」
俺は首をかしげた。
「何が?」
裕太がスマホを手に取って写真を確認しながら聞いた。
「いや、時計の振り子が……なんか遅くなった気がして」
「そんなの気にしすぎだろ」
裕太が笑いながら肩をすくめた。
「古い時計なんだから、そういうもんだろ?歯車がガタついてんじゃないの。ほら、写真ちゃんと撮れてるぞ」
スマホを俺に向けた。画面の中で三人が笑っている。古時計を背に、肩を組んで。いつもと変わらない、おっさん三人の記念写真。
ヒロは答えなかった。
俺は気づいていなかったが、後から思い返すと、ヒロだけが少しの間、時計をじっと見ていた。眼鏡越しに、何かを計算するような目で。それが裕太の笑い声でようやく解けて、静かに俺たちの方を向いた。
「帰ろうか」
それだけ言った。
管理棟を出ると、朝の空気が頬に当たった。木々の間から朝日が射して、露を含んだ地面が光っていた。
駐車場に向かいながら、俺はもう一度だけ振り返った。
管理棟の窓越しに、古時計が見えた。
振り子は、また元通りに、カチ、コチと揺れていた。
何事もなかったように。
——でも、その時はまだ分からなかった。
あの一瞬に何かが変わったことを。俺たちがあの写真を撮った瞬間に、俺たちの人生が、静かに、取り返しのつかない方向へと、狂い始めていたことを。
第三章 消えた娘

「ただいま」
玄関のドアを開けながら、俺はすでにユナの声を待っていた。
いつもなら、この言葉が終わる前に「パパーっ!」という声が飛んでくる。廊下を走る足音が響いて、体当たりみたいに抱きついてくる。あの重さ、あの温度、あの必死さ。それが当たり前になっていた。
でも——静かだった。
優香が、廊下の奥からゆっくりと出てきた。
「お帰り」
違う。
何が違うのか、一瞬は言葉にできなかった。顔は優香だ。声も優香だ。でも——何かが、薄い。いつもの優香は「おかえりなさい、ご飯どうする?シャワー先に入る?ユナがずっとパパのこと聞いてたよ」と、まくし立てるように言いながら台所との間を行き来している。常にどこかに動いていて、どこかを気にしていて、家全体を回している中心にいる。
今日の優香は、ただそこに立っていた。
「お疲れさま。楽しかったぁ?」
口元がゆるんでいる。のんびりした、ふわりとした笑顔。まるで日曜の昼下がりに近所のカフェで偶然会った知人に対するような。そんな顔だった。
こんな性格だったか……。
「ああ……ユナは?」
「ユナ?」
優香が首をかしげた。口に手を当てて、小首を傾けて。まるでその名前を生まれて初めて聞いたような顔で。
「……だぁれそれ?」
は?
一瞬、意味が分からなかった。
は?
「いやいやいやいや、冗談だろ? 隣の部屋で寝てるんでしょ? その手には引っかからないからな」
笑いながら廊下を歩いた。笑えてる自分がおかしかった。でも笑うしかなかった。ユナの部屋のドアに手をかけた。ひんやりとしたノブの感触。いつもここを開けると、ユナのおもちゃの匂いがする。苺のシャンプーと、クレヨンと、何か甘いお菓子が混ざったような、あの独特の匂い。
ドアを開けた。
——何もなかった。
ユナの布団がない。キャラクターのシーツも、お気に入りのぬいぐるみも、枕元に毎晩並べる小さなおもちゃたちも、全部ない。壁際に置いてあった衣装ケースがない。クレヨンを詰め込んだ缶の箱がない。本棚の絵本がない。窓際のシールだらけの棚がない。
ただの、空き部屋だった。
カーテンだけが、風もないのにわずかに揺れた。
「……」
俺は部屋の入り口に立ったまま、動けなかった。
心臓が止まった。
止まったような感覚、じゃない。実際に一瞬、本当に止まったんだ。胸の中で何かがぴたりと静止して、次の鼓動まで、恐ろしく長い時間があった。
振り返ると、優香が廊下から俺を見ていた。不思議そうな顔で。
「ユナって……俺たちの娘だろ?四歳の」
声が、自分のものじゃないみたいだった。
「何寝ぼけてるのぉ?」
優香が困ったように笑った。困ってはいる。でも、どこか他人事みたいな笑い方だった。自分には全く関係のない話を聞かされているときの、あの笑い方。
「私たち、まだ子どもいないでしょお?」
頭の中が、崩れた。
白、とも言えない。何色か分からない。色という概念ごと消えたみたいだった。自分が今どこに立っているのか、手足がどこにあるのかも、一瞬分からなくなった。
ユナはいた。
確実にいた。昨日の朝、出かける前に玄関でしがみついてきた。「パパ、お土産忘れないでね」って言いながら、俺のシャツの裾を両手で引っ張って。あの小さな指の力。あの上目遣い。俺が「分かった分かった」と言うまで離さなかった。あの感触は今も手のひらに残ってる。
いたんだ。絶対に、いたんだ。
「……ちょっと、外に出る」
それだけ言って、俺は家を飛び出した。
走った。どこへ向かうとも決めずに、ただ走った。
近所の公園。ユナがお気に入りの赤い滑り台。誰もいなかった。コンビニ。いつもユナがプリンのコーナーで「これ!」と指差す場所。知らない主婦が立っていた。駅前の小さな広場。ユナが鳩を追いかけ回して転んだ場所。鳩だけがいた。
「すみません、うちの娘を見ませんでしたか。四歳で、髪が短くて——」
公園のベンチにいた老人は、首を横に振った。怪訝な顔をしていた。当たり前だ。
誰も知らない。俺の娘を、誰も知らない。
路地の端で立ち止まって、膝に手をついた。息が荒かった。夕暮れが近づいていて、空が橙から紫に変わっていくところだった。こんなに綺麗な空を、今見ていることが、信じられないくらい場違いだった。
その時、携帯が鳴った。
裕太だった。
「カズ!大変なことになってる!」
電話口の声がかつてないほど切迫していた。あの裕太が、笑いの欠片もない声で叫んでいた。
「裕太も——何か、おかしくなってるのか」
俺は直感で聞いた。
「俺の娘たちがいない!嫁もいない!俺、独身に戻ってるんだよ!マンションに帰ったら見知らぬ荷物が全部俺のもので、結婚指輪もなくて——」
声が途切れた。
裕太が、泣いていた。
あの裕太が。いつも冗談ばかり言って、誰よりも大声で笑うあいつが、携帯越しに泣いていた。
背筋を、冷たいものが走り抜けた。
俺だけじゃない。
「分かった。ヒロにも電話する」
電話を切って、すぐにヒロに発信した。コール音が三回。
「……もしもし」
「ヒロ、お前のところは」
一拍の間があった。
「僕もだ」
その声は、震えていた。普段のヒロからは想像もできない、頼りない、細い声だった。
「娘たちがいないんだよ。二人とも。妻はいる。でも娘が、二人とも——どこにもいない。写真も、荷物も、何もない。まるで最初からいなかったみたいに……」
ヒロが口を閉じた。続きが出てこなかったんだろう。言葉にしたら本当のことになってしまうような、そういう沈黙だった。
俺は街灯が一つ点くのを、ぼんやり眺めた。
同じことが、三人全員に起きている。
あの時計の前で写真を撮った、あの朝から。
「どうなってるんだ……とりあえず、キャンプ場で落ち合おう」
電話を切って、俺は空を見上げた。
もう夕暮れは終わっていた。空は深い藍色で、星がまだ一つだけ光っていた。
「パパ、星ってどうして光るの?」と聞いてきた声を思い出した。
俺はちゃんと答えられなかった。「燃えてるからだよ」と適当に言って、早く寝ろと言った。
もう一度だけでいいから、あの声が聞きたかった。
第四章 狂った現実
車を走らせながら、俺はずっとハンドルを強く握りすぎていた。
指の関節が白くなっていた。それに気づいても、力を抜けなかった。頭の中で優香の声がループしていた。「私たち、まだ子どもいないでしょお?」あのふわりとした、他人事みたいな笑顔。あれが優香のはずがない。あれは優香じゃない。でも顔は優香で、声は優香で——。
キャンプ場の駐車場に車を入れたとき、裕太の車がすでに止まっていた。
管理棟に入ると、裕太が柱に背中を預けて立っていた。腕を組んで、床を見ていた。いつもの裕太なら真っ先に「遅いぞ」と言うはずだった。何も言わなかった。
ヒロが少し遅れて入ってきた。
三人で顔を見合わせた。
青白かった。三人とも。朝の光の中で見ると、互いの顔がはっきり分かった。血の気が引いて、目の下に影ができて、まるで一晩で十年老けたような顔をしていた。
「何が起きてるんだよ……」
裕太が頭を両手で抱えた。そのままゆっくりとしゃがみ込んで、髪をぐしゃぐしゃにかき乱した。
「ありえない。俺の家族がいないなんて、ありえないんだよ」
声が低く、かすれていた。怒りとも悲しみとも取れない、ただ消耗しきった声だった。
「……とりあえず冷静に考えよう」
ヒロが言った。でも声が震えていた。手も震えていた。眼鏡を直そうとして、指が滑った。全然冷静じゃない。それでもそう言うしかなかったんだろう。こいつなりの、必死の踏ん張りだった。
「まず原因を——」
「原因?」
裕太が顔を上げた。
目が、変わっていた。
「原因……原因って何だよ! そもそもヒロが時計の前で写真撮ろうって言ったからこうなったんじゃないのか?! 」 裕太が鋭い眼光でヒロを睨む。
「なぁ!? 教えてくれよ! 何が原因って言うんだよ! 俺が何かしたって言うのかよ! なぁあ! 」
裕太が立ち上がった。一歩、二歩とヒロに近づいて、その胸倉を両手で掴んだ。
ヒロの体が、ぐっと引き寄せられた。眼鏡がずれた。
「お前ら、いつも冷静ぶりやがって! 頭いい顔してりゃあ何でも分かるのか! 俺の娘がいないんだぞ! 嫁がいないんだぞ! それでどうやって冷静になれっていうんだよ!」
裕太の目に、涙が浮かんでいた。
大の男が、隠しもせずに。
「裕太……」
「やめろ、二人とも」
気がついたら俺は二人の間に体を滑り込ませていた。両腕を広げて、裕太の胸とヒロの胸をそれぞれ押した。裕太の体は岩みたいに固かった。全身に力が入っていた。
「今はそれどころじゃない」
裕太はまだヒロを睨んでいた。ヒロは押しつけられた眼鏡のフレームを直しながら、視線を床に落としていた。
誰も謝らなかった。謝れる状態じゃなかった。俺も、もう限界だった。怒鳴りたかった。泣きたかった。でも今それをやったら、三人とも壊れる気がした。
深呼吸を一つした。
「今朝、ここで変わったことがあったか。何でもいい、思い出せ」
静寂が落ちた。
裕太が、ゆっくりと腕の力を抜いた。
ヒロが、乱れた息を整えながらズレた眼鏡をクイッと直した。そしてゆっくりと、いつもの分析するような目に戻っていった。
「……そういえば」
俺は口を開いた。
「古時計の前で写真を撮った瞬間、振り子が遅くなった気がしたんだ。一瞬だけ。でも確かに」
三人の視線が、管理棟の奥へ向いた。
古時計は、今もそこにあった。カチ、コチ。カチ、コチ。重厚な木のケースの中で、振り子が左右に揺れていた。何も知らないように。何も関係ないように。
「測ってみよう」
ヒロがスマホを取り出した。ストップウォッチのアプリを開いて、振り子の動きに合わせてタップした。左から右へ。右から左へ。もう一往復。また一往復。
「……1.3秒だ」
「普通の振り子時計は1秒のはずだ」ヒロは静かに言った。「これは明らかにおかしい」
三人でしばらく無言で時計を見上げた。振り子は悠然と揺れ続けていた。カチ、コチ。カチ、コチ。その音が今は、まったく違う意味を持って聞こえた。
管理棟のカウンターに中年の男性スタッフがいた。さっきから俺たちのことを不思議そうに見ていた。
「すみません、あの時計について教えてもらえますか」
スタッフは少し驚いた顔をしてから、穏やかに答えた。
「ああ、あれは昔からあるんですよ。かなり古いもので、時々調子が悪くなることもあるんですけどねぇ。まぁ、見た目がいいでしょう?アンティークな感じがここの雰囲気に合うんで、ずっと置いてるんです」
「昨日の夜から今朝にかけて、何か変わったことはありましたか。時計に関することじゃなくてもいいです」
スタッフは顎に手を当てて、少し上を向いた。
「さあねぇ、特には……」
そこで言葉が途切れた。
何かを思い出そうとしているような間があった。
「そう言えば……あまり関係ないかも知れないんですが、あの振り子がたまに、何というか、不自然な動き方をすることがあって。ちょっとリズムがずれるというか。気のせいかも知れないですけどね」
「それはいつ頃ですか」
「いやぁ、決まってるわけじゃないんですよ。ふと気がついたら、みたいな感じで。また気がついたら元に戻ってるし」
俺たちは顔を見合わせた。
その後、何度か試してみた。スマホを構えて、時計の前に立って、シャッターを切った。振り子の動きを測った。1.3秒。また測った。1.3秒。何も変わらなかった。振り子は規則正しく、ただ揺れ続けていた。
「もしかして」
ヒロが静かに口を開いた。眼鏡の奥の目が、何かを組み立てているときの光り方をしていた。
「時刻が関係してるんじゃないか。俺たちが写真を撮ったのは、きっかり午前八時だった。あの瞬間だけ、何かが起きたとしたら——」
「じゃあ、明日の朝八時にもう一度やってみよう」
三人の間に、短い沈黙が落ちた。
それ以外に手がなかった。それ以外に言葉もなかった。
その夜、俺はキャンプ場のベンチに一人で座っていた。
眠れるはずがなかった。テントに入っても寝袋の中で天井を見るだけだと分かっていた。だから外に出た。夜の空気は冷たくて、息が白くなった。
ユナの笑顔が頭から離れなかった。
「パパ、お仕事行かないで」と泣いた朝の顔。あのとき俺は振り返らずに玄関を出た。振り返ったら自分まで泣きそうだったから。でも今思えば、振り返ればよかった。もう一秒だけ立ち止まって、あの顔をちゃんと見ておけばよかった。
あの涙の一粒一粒まで、俺は覚えている。
嘘じゃない。記憶が薄れているわけでも、夢を見ていたわけでもない。昨日の朝、確かにあの子は存在していた。今も存在しているはずだ。どこかに。
夜空には星が出ていた。

第五章 さらなる混乱
夜明け前から、俺は目が覚めていた。
眠れたのかどうかも分からない。気を失うように意識が途切れて、また浮かび上がる。それを何度か繰り返したら、空が白んでいた。テントの薄い布越しに、鳥の声が聞こえた。いつもなら清々しく感じるその声が、今朝は妙に遠かった。
六時には三人とも起きていた。誰も「おはよう」と言わなかった。言える雰囲気じゃなかった。裕太は地面を見たまま缶コーヒーを飲んでいて、ヒロはノートに何かを書いては消していた。俺は焚き火の残骸をぼんやり眺めていた。灰になった薪が、昨夜の形のまま崩れずに残っていた。
午前八時まで、三人でそうやって時間を潰した。
時計の針が八時を指す少し前、俺たちは管理棟に入った。古時計は昨日と変わらずそこにあった。カチ、コチ。カチ、コチ。重たい音が静かな朝に響いていた。
「今度こそ元に戻る」
俺は自分に言い聞かせるように言った。誰に向けた言葉でもなかった。ただ口から出た。
スマホを棚に立てかけてタイマーをセットした。手が震えていた。画面をタップする指が言うことを聞かなかった。三回やり直して、ようやく十秒に設定できた。
三人で横に並んだ。肩を組んだ。
昨日の朝と同じ並び方。同じ場所。
でも、何もかもが違った。
「せーの」
カシャッ。
シャッター音が鳴った瞬間、俺は振り子を見た。
速くなっていた。明らかに。カチコチカチコチ、とリズムが詰まって聞こえた。ヒロがすぐにストップウォッチで測った。
「0.8秒だ」
三人の間に、奇妙な沈黙が落ちた。
「もどっ……たのか?」
裕太が掠れた声で言った。希望とも疑いともつかない声で。
分からなかった。1.3秒から0.8秒になった。元は1秒だったはずだ。近づいたのか、遠ざかったのか、それすらも分からなかった。でも試す方法は一つしかない。
「帰ってみるしかない」
俺たちはそれぞれの車に乗り込んだ。
家の前に車を止めて、しばらくエンジンを切れなかった。
ハンドルに手を置いたまま、フロントガラス越しに自分の家を見た。何も変わっていない外観。いつもと同じ玄関灯。ポストに何か入っている。
でも昨日もそう思ったんだ。外からは何も分からなかった。
深呼吸を一つして、車を降りた。
「ただいま」
玄関のドアを開けながら言った。声が、自分でも分かるくらい緊張していた。
キッチンの方から水の音がした。食器が当たる音。
優香がいる。
「……あ、帰ってきたのね」
振り返らなかった。
皿を洗いながら、それだけ言った。声は静かだった。静かすぎた。昨日のふわりとした声とも違う。もっと薄い、もっと遠い声だった。冬の窓ガラスみたいに、触れたら冷たいと分かる声だった。
「ただいま」
もう一度言った。
返事がなかった。
水の音だけが続いていた。
「……ユナは?」
水の音が、止まった。
一瞬だけ止まって、またすぐに始まった。
返事はなかった。
俺の声が聞こえていないのか。それとも聞こえていて、無視しているのか。どちらにしても、答えは同じことを意味していた。
リビングに入った。
テレビの横に、写真立てがあった。
いつもはそこに、三人で撮った写真が飾ってある。去年の夏、海に行ったときのやつ。ユナが砂まみれになって笑っている写真。優香が呆れた顔で笑っている写真。
写真立ては、伏せられていた。
俺は手に取って、表に向けた。
俺と優香だけが写っていた。二人だけで、どこかのレストランで撮ったような写真。二人とも笑っていなかった。
ユナは、この世界にも存在しないんだ。
床に置いた。そっと置いた。乱暴に扱ったら、何かが壊れる気がした。
夕食の時間になっても、優香は何も言わなかった。
テーブルに二人分の皿が並んだ。それだけで、会話はなかった。箸の音だけが、静かな食卓に落ちた。
「優香、何か怒ってるの?」
「別に」
「でも、なんか……様子が」
優香が箸を置いた。
「五月蠅いなぁ」
低い声だった。疲れていて、それを隠す気もない声だった。
「疲れてるの。ほっといて」
それ以上何も言えなかった。
食事が終わると、優香は自分の皿を片付けて、廊下に向かった。寝室のドアが閉まる音がした。鍵はかけなかった。でも、閉まったドアの向こうは、壁と同じだった。
俺は一人でリビングに残った。
ソファに横になって、白い天井を見た。
ユナがいた頃、リビングの壁の低いところにシールがいくつも貼ってあった。ちょうどユナの手が届く高さに、好きなキャラクターをぺたぺたと。優香に何度剥がされても、翌日にはまたこっそり貼り直していた。俺はそれを見て見ぬふりをしていた。怒る気になれなかったし、正直どこか可愛かった。
今はない。壁はつるりとしていて、何もなかった。その分だけ、部屋が他人の家みたいだった。
どうしてこうなったんだろう。
優香の冷たさが、今の俺には堪えた。昨日の別の世界の優香は、少なくとも笑っていた。こちらの言葉に反応していた。今日の優香は、俺がいることにすら興味がないみたいだった。
きっとこの世界の俺は、最低な夫なのかもしれない。
どんな風に、どれだけの時間をかけて、優香をここまで遠ざけたのか。俺には分からない。でも結果だけは見えている。
そしてユナはいない。
ユナがいないこの家は、ただの箱だった。
携帯が鳴ったのは、十一時を過ぎた頃だった。
裕太とヒロから、ほぼ同時に着信が来ていた。裕太に折り返した。
「どうだった」
「……また変わった」裕太の声が重かった。「でも……なんつーか……複雑だ」
「どういうことだ」
短い間があった。
「妻も娘も、二人とも、いる」
「それは——」
「妻が、病気なんだ」
俺は言葉を失った。
「重いのか」
「……ああ」
それ以上は聞けなかった。裕太も話せなかった。電話口に、重たい沈黙が落ちた。
続けてヒロに電話した。
「僕のところは妻はいる。でも、娘が一人、いないんだ」
ヒロの声は静かだった。静かすぎて、逆に怖かった。感情を全部内側に押し込めて、理性だけで話しているような声だった。
「一人だけ、いないのか」
「ああ。上の子はいる。でも下の子の痕跡が、何もない」
三者三様だった。同じ写真を撮って、同じ場所から出発したのに、三人それぞれが違う世界に着いている。まるでサイコロを振るみたいに、行き先が決まっているみたいだった。
「とりあえず、キャンプ場で落ち合おう」
電話を切って、また壁を見た。
元の世界では、リビングの壁に今もあのシールが貼ってある。優香が何度剥がしても諦めて放置したやつ。くまのキャラクターで、端が少し浮いてきている。ユナの目線の高さに、ちょこんと。
それが、今は途方もなく愛おしかった。
第六章 並行世界の理論
「確実にあの時計が関係してる」
ヒロが静かに言った。
キャンプ場のテーブルに三人で向かい合っていた。夜の空気は冷えていて、誰かが途中でランタンを点けた。オレンジ色の光が三人の顔を下から照らしていた。裕太はまだどこか険しい顔をしていて、俺は両手をテーブルの上で組んだまま、ヒロの次の言葉を待った。
ヒロがバッグからノートとペンを取り出した。こういう時のこいつは早い。感情より先に頭が動き出す。それがヒロという人間だ。
「仮説を立ててみよう」
ノートを開いて、真ん中あたりに一本の横線を引いた。その線の上に、丸印を一つつけた。
「一昨日の朝、八時ちょうど。これが最初に時計の前で写真を撮った地点だ」
丸印を起点に、今度は角度を少しずつ変えながら、放射状に線を三本引いた。
「俺たちが元々いた世界を『1』とする。1.3秒の世界が『2』、今の0.8秒の世界が『3』」
ペン先で、それぞれの線の先端を順番に叩いた。
「つまり、無数の並行世界が存在していて、それぞれが未来に向かって進んでいる。あの時計は——そこへの扉だった」
「で、あの時計で移動できると」
裕太が腕を組んだまま言った。疑っているというより、確認しているような言い方だった。
「そうだ。午前八時きっかりに、古時計の前で写真を撮ると、並行世界を移動する。そして振り子の速度が、今自分がどの世界にいるかを示している」
ヒロはさらにペンを走らせた。丸印を中心に、線を増やしていった。五本、七本、十本。
「並行世界はこの三つだけじゃない。無数にある」
図を見ながら、俺は黙って頷いた。話の筋は分かる。分かるが——。
「じゃあなんで俺の家族がいなくなったり、急に病気になったりするんだ」
裕太が訝しげな目でヒロを見た。正当な疑問だった。理屈は分かっても、そこが繋がらない。
ヒロはペンを置いた。少し考えるように視線を動かしてから、テーブルの端に置いてあったペットボトルを手に取った。
それから、おもむろに手を伸ばして、テーブルの上のスキレットをひっくり返した。
金属が当たる鈍い音がして、裕太が「何するんだ」と眉を上げた。ヒロは構わず、ペットボトルの口を傾けて、スキレットの底に水を一滴、垂らした。
水滴が落ちて、細い軌跡を描いて止まった。
「見ててくれ」
もう一度、同じ高さから、同じ速さで垂らした。
今度は最初とは微妙に違う軌跡を描いた。
「同じタイミングで垂らしても、軌跡は毎回違う」
ヒロがスキレットをランタンの光に傾けた。二本の水の筋が、並んでいた。似ているが、同じではない。
「並行世界も同じだ。同じ起点から始まっても、そこで何が起きるかは世界によって違う。俺たちが出会って、結婚して、子どもが生まれるというイベントが、全ての世界で起きるわけじゃない。僕たちが戻らなければならないのは——そのイベントが全て起きている世界だ」
テーブルの上に、しばらく沈黙が落ちた。
ランタンの炎が、風もないのに小さく揺れた。
俺は何となく、輪郭を掴み始めていた。
「つまり、振り子が一秒ちょうどの世界が、俺たちの元いた世界ってことか」
「その通りだ」
裕太の目に、初めて光が戻った。
「じゃあ、一秒になるまで何度でも試せばいいじゃないか。それだけの話だろ」
前向きな言葉だった。裕太らしい、直線的な突破口の見つけ方だった。俺も一瞬そう思った。
でもヒロの表情が、暗かった。
ヒロはノートに手を伸ばした。さっき放射状に線を引いた紙だ。それをゆっくりと、丸印を頂点にして、くるりと丸めた。
円錐になった。
頂点が一点で、裾に向かうほど広がっていく、あの形。
「あくまで仮説だが」
ヒロが円錐をテーブルに立てた。
「写真を撮った地点を頂点だとすると、時間が経つにつれて、並行世界同士の距離はどんどん広がっていく。この円錐の裾のように」
「……広がると、どうなるんだ」
「元の世界に戻れなくなる可能性がある」
裕太の顔から、さっと色が消えた。
「俺の子どもがいなくなったり、一人だけ戻っていたり——それはそういうイベントが起きていない世界に来てしまったからだ。裕太の場合は、奥さんと出会うイベントすら起きなかった世界があった」
「……」
「移動を繰り返すたびに、本来の世界からどんどん遠ざかっていく。そのイベント自体が、少しずつ、取り返しのつかない形に変わっていってしまう」
裕太が、ゆっくりと目を閉じた。
開いたとき、その目はもう光っていなかった。
「どうすればいいんだ」
「ランダムに移動しているわけじゃないと思う。何かパターンがあるはずだ」
ヒロが言って、三人で黙り込んだ。
最初の日から今日まで、自分たちが何をしてきたか。頭の中で順番に並べてみた。家を出た。キャンプ場に来た。朝食を食べた。時計の前で写真を撮った。
「ちょっと待て」
俺は口を開いた。
「家を出るとき、俺は優香とユナを抱きしめた。それが最初にやったことだ」
ヒロがノートを開いた。
「俺も」裕太が言った。「嫁と娘たちをハグしてから出た。毎回そうしてる」
「僕もだ」
三人で顔を見合わせた。
ヒロがゆっくりと頷いた。
「もしかしたら——それが鍵になるかもしれない。最初と全く同じ行動を取ること。家族を抱きしめてから、この場所に来ること。それが、元の世界に戻るための条件なんじゃないか」
裕太の顔に、再び光が戻った。ヒロも、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
でも俺は、二人と同じ顔ができなかった。
「す……すまん。問題がある」
二人の視線が、俺に向いた。
「この世界の優香は……俺を避けてる。ハグどころか、会話もまともにできない」
「どういうことだ」
ヒロが眼鏡の奥の目を細めた。
「なんというか……離婚寸前、みたいな感じだ。昨日も夕食中ひとことも口をきかなくて、飯が終わったら別の部屋に行っちまった」
裕太とヒロが、互いの顔を見てから、また俺を見た。
重い沈黙だった。
「なんとか……できないのか」
裕太が言った。責めているわけじゃない。ただ、すがるような声だった。
「今のままじゃ、無理だと思う」
「ハグをしないで移動したらどうなる」
裕太がヒロの方に顔を向けた。
ヒロはすぐに答えなかった。視線をノートに落として、さっき丸めた円錐の紙を指でゆっくりと回した。まるで自分自身に問いかけているように。
「僕たちが戻りたい世界は一秒だ。今いる世界が0.8秒。仮にこのまま移動を繰り返して、0.1秒まで行ったとする」
「……その先は」
「振り子が止まる」
横から裕太が言った。低い声だった。
「そうだ」ヒロが静かに続けた。「振り子が止まるということは、時間が進まないということだ。そこに存在できる時間軸がない。つまり——僕たちは、存在しなくなるかもしれない」
誰も声を出さなかった。
ランタンの光が、三人の顔を照らし続けていた。
「反対側も同じだ」ヒロが円錐の紙を今度は逆さまに置いた。「1.3秒よりさらに遅い世界へ移動し続けると、円錐の裾がどこまでも広がっていく。元の世界から遠ざかりすぎて——本来の妻や子どもとは、もはや全くの別人になっている可能性が高い。記憶も、性格も、俺たちとの歴史も、何もかもが違う人間に」
「そこまで行くと」
俺は聞いた。
ヒロが少し間を置いた。躊躇っているというより、自分の中で答えを確かめているような間だった。
「……もう戻れない気がする」
静寂が落ちた。
木々の向こうで、虫の声がしていた。こんな夜にも虫は鳴くんだ、とどこか場違いなことを思った。
「じゃあどうすれば——」
ヒロが顔を上げた。眼鏡の奥の目が、真っ直ぐに俺を見ていた。焦りとも覚悟ともつかない、強い光だった。
「カズ」
名前を呼ばれた。
「なんとかするんだ」
それだけだった。
答えでも、方法でも、保証でもない。ただ、お前がやるしかないという、静かな宣告だった。
俺はテーブルの上の円錐の紙を見た。頂点から裾へ、広がり続ける形。時間が経てば経つほど、元の場所から遠ざかっていく。
残された時間は、多くない。

第七章 妻の心を取り戻す大作戦決行

その日から、俺は必死だった。
「なんとかするんだ」というヒロの言葉が頭にこびりついて離れない。なんとかする、って言ったって、俺に何ができるんだ。仕事しかしてこなかった男に。
元の世界でだって、たいして料理もしなかった。コーヒーメーカーの使い方すら、正直あやふやだ。毎朝優香が入れてくれたものを、当たり前のように飲んでいた。「いただきます」も言わずに、スマホを見ながら。
そういう男が、今さら妻のためにコーヒーを入れようとしている。
なんとも滑稽な話だ。
ただ——。
元の世界の俺も、この世界の俺も、根っこの部分は同じはずだ。仕事人間で、気が利かなくて、大事なものを大事にする言葉を持っていない。それは変わらない。
なのに、結果はこんなにも違う。
優香との関係が、こんなにも。
どこで分かれたんだろう……。
色々思い当たる節を考えてみたんだけど、でも答えは出なかった。たぶん、どこかに「これ」という分岐点があったわけじゃないのだと思う。記念日を忘れたあの夜だったかもしれないし、残業だと言って飲みに行ったあの日だったかもしれないし、もしくは何でもない平日の朝、優香が「ねえ」と呼びかけてきたときにスマホから目を上げなかった、その一瞬だったかもしれない。
些細なことの、積み重ねだ。
何かを選ぶたびに、世界はほんの少しだけ形を変える。その変化は小さすぎて、その場では気づけない。気づいたときには、もう取り返せないくらい遠くに来ている。
俺はソファで夜明けを待ちながら、そのことをずっと考えていた。
——元の世界の俺も、危なかったのかもしれない。
その考えが浮かんだとき、背筋に冷たいものが走った。
ユナがいたから、かろうじて保っていただけで。あの子の「パパ、お仕事行かないで」という声が、俺を何度もつなぎとめていた。俺は仕事に向かう足を止めて、玄関でユナを抱き上げて、「帰ったらいっぱい遊ぼうな」と言った。それが習慣だった。その一言が、その一秒が、ひょっとしたら俺と優香の何かを守っていたのかもしれない。
些細なことが、人生を変える。
その証拠を俺は今、自分の目で見ている。
だから——やるしかない。
次の日の朝、五時半に台所に立った。一睡もできなくて疲れた目を擦りながらコーヒーメーカーを見た。
……どっちがフィルターだ?
引き出しを三つ開けて説明書を探した。折り目一つついていないそれを広げて、いい歳して初めてコーヒーメーカーの取扱説明書を読んだ。豆をグラインダーに入れてスイッチを押したら、けたたましい音が響き渡った。思わず両手で機械を押さえた。静かな朝に、この音は拷問みたいだ。
コーヒーが落ちるのを待つ間、カップを選んだ。優香のお気に入りがどれかも俺は知らない。白くてシンプルなマグにした。外れではないだろうと思って。
ミルクを入れた。「少し」がどのくらいか分からなくて、慎重にほんの少しだけ傾けて止めた。カップを持ち上げて色を確認した。黒に近い茶色。もう少しか。また傾けた。今度は入れすぎた。全体が薄い茶色になった。
「……」
誰もいないのに舌打ちをした。
まあいい。とにかく運ぶ。
寝室のドアをそっと開けると、優香は眠っていた。毛布の中で小さくなって、背中をこちらに向けている。規則正しい寝息。
俺はサイドテーブルにカップを置いた。。スモーキーなコーヒー独特の香りがふわりと漂った。
そっとドアを閉めた。
廊下に出た瞬間、ふと思った。
元の世界でも、この匂いは毎朝あったんだ。
優香が入れてくれた、俺は気にも留めなかった、あのコーヒーの香りが。
その次の日も同じように起きた。今日こそミルクの量を、と慎重にやったのにまた入れすぎた。なんなんだ俺は。
仕事を終え、帰り道にある花屋に寄った。
駅前の花屋に入ったのは生まれて初めてかもしれない。優香がスイートピーが好きだということは、なんとなく知っていた。付き合い始めた頃に一度だけ言っていたのを、なぜか覚えていた。
こんなどうでもいいことは覚えているのに、毎日の「おはよう」すら言えなくなっていたのが、この世界の俺だ。でも元の世界の俺だって、そう大きく変わらなかっただろうと思う。ただ、ユナが生まれてからは、娘の話題が二人の間の橋渡しになっていた。「今日ユナがこんなことを言ってね」「最近歩き方が変わってきたよ」そういう他愛のない言葉が、気づかないうちに俺たちをつないでいた。
子どもというのは、夫婦の隙間を埋めてくれる存在でもあるのかもしれない。
そう考えると、この世界の二人には、それがなかった。
ただ、静かに、すれ違い続けてきた。
薄紫と白のスイートピーを三本買って玄関に飾った。
優香が帰ってきた。玄関のドアを開けて、靴を脱いで——一瞬だけ、足が止まった気がした。でも何も言わずに廊下を歩いて、自分の部屋に消えた。
翌日、スイートピーはリビングの窓際に移動していた。
捨てられてはいなかった。それだけで、少し息ができた。
夕飯も作った。
「作る」と言っても、俺には何もできない。料理というものを、まともにしたことがない。スマホでレシピを調べながら、親子丼に挑戦した。
玉ねぎを切ったら、盛大に泣いた。
涙が止まらなくて、途中からこの状況全体に泣いているのかもよく分からなくなった。ユナに会いたいとか、元の世界に帰りたいとか、自分がいかに何も知らなかったかとか、そういうものが全部混ざって、玉ねぎのせいにしながら泣いた。
火加減を間違えて、卵が固まりすぎた。
それでも皿に盛って、優香の部屋の前に置いた。ノックしようか迷って、やめた。ただ置いて、リビングに戻った。
しばらくして廊下を見ると、皿がなくなっていた。
——食べてくれた。
それだけで、夜が少し変わった。
でも「おはよう」には返事がなかった。「今日、冷えるらしいよ」も無視された。「夕飯、何か食べたいものある?」と聞いたら、冷蔵庫のドアが閉まる音だけが返ってきた。
その日の夜、ビールを飲みながら天井を眺めた。
これは無理かもしれない。
そう思いながら、次に思った。
——でも元の世界の俺は、今ごろ何をしているんだろう。
残業して、コンビニで何か買って帰って、リビングで一人飲んでいるかもしれない。優香はもう寝ていて、ユナの寝顔だけ覗いて、自分も黙って布団に入る。そういう夜を、何百回も繰り返してきた。
それを「普通」だと思っていた。
でも、普通じゃなかったんだ。
奇跡みたいに精密なバランスの上に、俺たちの日常は成り立っていた。誰かが少しだけ歩み寄ったり、たまたまタイミングが合ったり、ちょっとした言葉が誰かの心を柔らかくしたり。そういう無数の小さな選択が重なって、俺たちはかろうじて同じ方向を向いていた。
その一つ一つを、この世界の俺は積み重ねられなかった。
ただそれだけのことが、こんなにも大きな差になる。
缶を置いて立ち上がった。明日も五時半に起きようと思いながら。
翌朝。コーヒーを置いてドアを閉めようとしたとき、毛布の動く音がした。それから、くぐもった小さな声。
「……ありがとう」
俺は一瞬、動けなかった。
「え?」
振り返ると、優香は布団の中で横を向いたまま、目を閉じていた。寝言だったのかもしれない。半分眠ったままだったのかもしれない。
もう一度聞こうとして、やめた。そっとドアを引いた。
廊下に出た瞬間、壁に背中をつけてその場に立ち尽くした。心臓が、馬鹿みたいに速かった。
ガッツポーズをした。誰にも見られない廊下で、情けないくらい。
コーヒーの香りの中に、朝日が差し込んできた。こんな光を、今まで見ていたかどうかも分からない。
——それで十分だった。
五日目。「今日は早い?」と聞いたら「普通」と返ってきた。たった一言。でもその一言を、俺はその日何度も頭の中で再生した。
六日目。夕飯に味噌汁を作った。じゃがいもと豆腐。ネットで調べた通りにやったつもりが、なぜか塩辛くなった。優香は文句も言わずに全部飲んだ。翌朝、台所の味噌の位置が変わっていた。もしかしたら、使いやすい場所に直してくれたのかもしれない。それとも、単に戻しただけかもしれない。
でも俺は、それを希望と呼ぶことにした。
七日目の夜。優香がリビングに来た。何も言わずに椅子を引いて、俺と同じテーブルに座った。テレビが天気予報を告げていた。俺も何も言わなかった。下手なことを言って、また壊したくなかった。
箸の音だけが、静かな食卓に落ちた。
優香が立ち上がろうとしたとき。
「ごちそうさま」
「……お粗末さまでした」
古臭い返し方だと思ったが、それしか出てこなかった。
優香は振り返らなかった。でも台所に向かう背中の、肩の線がほんの少しだけやわらいだように見えた。
九日目。コンビニでプリンを三つ手に取った。何の気なしに。ただレジの前でふと、ユナの分も、と思っただけだ。
この世界にはいないのに……。
テーブルに並べると、優香がリビングに来てそっと一つを取った。フタを剥がすとき、俺はわざと違う方向を向いた。でも視界の端で、確かに見えた。
口の端が、ほんのわずか、上がった。
「最近、変わったね」
静かな声だった。どこか遠くを見るような目で。
「どこが?」
「優しくなった」
少しの間が落ちた。窓の外を車が一台通り過ぎた。
「前は、仕事ばかりで。私のことを、ちゃんと見てくれなかった」
責めているわけでも、怒っているわけでもない声だった。事実を言っているだけの、静かな声。その淡々とした言い方が、怒鳴られるよりずっと胸に刺さった。
この世界の俺は、それほどまでにこの人を見ていなかったのか。
毎日同じ屋根の下にいながら。
——でも。
俺は心の中で、自分に問いかけた。
元の世界の俺は、ちゃんと見ていたか?
答えは、すぐには出なかった。出なかったということが、たぶん答えだった。
仕事で疲れた夜、優香が何かを話しかけてくれたとき、ちゃんと顔を上げていたか。誕生日より残業を選んだことは、何度あったか。「ありがとう」を言ったのは、最後にいつだったか。
この世界の俺とそう大きく違わない。
ただ——何かが、少しだけ違った。
たぶんそれだけのことが、二つの世界を作った。
「ごめん」
気がついたら口から出ていた。
この世界の優香への謝罪なのか、元の世界で積み重ねてきた全部への謝罪なのか、自分でも分からなかった。どちらでもあった気がする。
「これからは変わるよ」
優香が俺を見た。
疑うような目だった。でも拒絶ではなかった。何年も傷ついてきた人間が、もう一度だけ信じようかどうか迷っているような目だった。
「本当に?」
「本当だ」
嘘じゃない。
この世界に来て初めて、俺は本当の意味で分かった気がする。大事なものは、失ってから気づくのではなく、失いかけたときに気づくものなんだと。いや、もっと前に気づかなければいけなかったんだと。
何気ない朝のコーヒーの温度を知ること。好きな花の名前を覚えていること。「ありがとう」を言葉にすること。帰ったら「おかえり」と言ってもらえること。
そういう些細なことの一つ一つが、実は取り替えのきかない何かで出来ている。
優香はしばらく俺の目を見ていた。やがて視線をプリンに戻して、また食べ始めた。
信じてもらえたかどうかは、分からなかった。それでいいとも思った。信じてもらうのは言葉じゃなくて、これからの時間だから。
その夜。寝室に入ると、優香がもうベッドにいた。電気を消した。
暗闇の中に、コーヒーの残り香がかすかにあった。気のせいかもしれない。でも、した。
優香の寝息が聞こえてきた。
俺はしばらく天井を見ていた。この世界に来てからのことを、順番に思い出した。説明書を読みながら作ったコーヒーのこと。玉ねぎで泣いたこと。塩辛すぎた味噌汁のこと。廊下でひとりガッツポーズをしたこと。プリンのフタを剥がすときの、あの小さな笑み。
たいしたことは、何一つできなかった。
でも、分かったことがある。
人生を変えるのは、たぶん大きな決断じゃない。
毎朝少しだけ早く起きること。帰り道に花を一本買うこと。下手くそな料理を皿に盛って、ドアの前に置くこと。
そういうことの、積み重ねだ。
この世界の俺に足りなかったのも、元の世界の俺が危うく失いかけていたのも、たぶん同じものだった。
隣で、優香が寝息をたてていた。
それだけで俺は、目を閉じることができた。
第八章 裕太の葛藤

決行の前日、俺たちはいつものようにキャンプ場に集まった。
焚き火を囲んで、缶ビールを開けて、他愛もない話をしていた。でも、どこかふわついていた。明日のことを考えると、笑い声の奥に緊張が滲む。元の世界に帰れる。そう信じていた。信じようとしていた。
「なあ」
裕太が缶を膝の上に置いた。
焚き火の炎が、その横顔を赤く照らしていた。いつものような軽口を叩く顔じゃなかった。言いにくいことを腹の中でずっと温めていた人間の、重たい顔だった。
「すごく言いづらいんだが……」
裕太は一度、大きく息を吸った。
「ヒロ、カズ……すまん。俺は、ここにいるよ」
しばらく、火のはぜる音だけがした。
「何を言ってるんだ」
ヒロが静かに言った。眼鏡の奥の目が、真っ直ぐ裕太を見ていた。
「そのままの意味だよ」裕太は視線を落としたまま続けた。
「この世界にも妻がいる。娘たちがいる。病気だけど……一緒にいられる。元の世界に戻れる保証なんて、どこにもないだろ。だったら俺は——」
「でも、それは本当の君の家族じゃない」
ヒロが遮った。
その瞬間、裕太の目に火が灯った。
「何が本当で、何が偽物なんだ」
低い声だった。怒りというより、ずっと抱えてきた問いが、ようやく言葉になったような声だった。
「どの世界でも俺は俺だ。家族は家族だ。俺が愛してるのに、それが偽物だと言うのか」
「裕太——」
「俺の娘たちは笑う。泣く。俺の名前を呼ぶ。あいつらにとって俺は本物の父親だ。それの何が偽物なんだ」
ヒロと俺は、すぐに言い返せなかった。
裕太の言葉は正しかった。正しいから、刺さった。
しばらく沈黙が落ちた。炎が揺れた。
「それに」裕太が続けた。「元の世界に帰ったとして、この世界の妻と娘はどうなるんだ。俺たちがいなくなったら、あいつらはどうすりゃいいんだよ」
すぐに答えが見つからず目線を逸らした。ヒロが顎に手を当てて、少し上を向いた。考えるときの癖だ。
「……元々、この世界にも僕たちはいたんだ」ヒロがゆっくり口を開いた。「写真もある。記録もある。つまり、僕たちが来る前から、この世界の『俺たち』が存在していた」
「どういうことだ」
「一つの世界に、同じ人間は一人しか存在できない。だから僕たちがここに来た瞬間、本来いるべき自分と入れ替わった。ドッペルゲンガーみたいな話じゃなく、完全な置き換えだ。現に、自分自身に出くわしていないだろ?」
裕太は黙って聞いていた。
「だから——僕たちが元の世界に戻れば、この世界にも元の状態が戻る。厳密には、ここで俺たちが起こした変化が残る可能性はある。でも、この世界の家族が消えるわけじゃない」
「じゃあ」裕太がヒロを見た。「この世界の俺が戻ってきて、病気の妻の横に座るのか。俺が積み上げてきたものを、そいつが引き継ぐのか」
ヒロは答えなかった。
答えられなかった。
俺も同じだった。それは理屈で片付けられる話じゃなかった。
「なあ」俺は口を開いた。「裕太、帰ろう。自分の世界に、俺たちは帰らなきゃいけないんだ」
「分かってる」裕太は言った。「頭では分かってるんだよ」
「じゃあ——」
「でも胸が、ついていかないんだ」
その言葉が、夜の空気に溶けた。
裕太は地面を見ていた。大きな手が、膝の上でゆっくりと握られた。
「俺は……帰らねぇ。ここにいる」
「裕太」
「決めた。もう決めたんだ」
「いい加減にしろよ!」
気がついたら俺は立ち上がっていた。裕太の肩を両手で掴んでいた。分かってほしい、という気持ちが、力になって出た。
「帰らなきゃいけないんだよ。俺の娘も……お前の娘も——元の世界で、元気に笑って、お前の帰りを待ってるんだ」
裕太は俺の手を払いのけた。
「ほっといてくれ」
鋭い眼光が俺を射た。
「大体お前はいつもそうだ。カズ、お前はいっつも自分のペースで全部まとめようとする。俺の気持ちなんか、聞く気もないくせに」
「何だと?」
「何でもかんでも正論で押し込めば済むと思ってるんだろ。俺が間違ってて、お前が正しいって顔してりゃあ、それで万事解決だと思ってるんだろ!」
裕太の声が夜の木々に響いた。
俺の頭に血が上った。気づいたら裕太の胸倉を掴んでいた。
「俺だって家族が心配なんだよ!」
「じゃあ一人で帰れよ!」
「お前ら、やめろ!」
ヒロが二人の間に割って入った。俺と裕太の間に体を滑り込ませて、両腕を広げて押し返す。
「落ち着け、二人とも!」
それでも俺の頭は冷えなかった。裕太の目も燃えていた。ヒロだけが、眼鏡をズレさせながら必死に間に立っていた。
しばらくの間、三人とも黙っていた。
焚き火が、静かに燃え続けていた。
その時、裕太のポケットが鳴った。
着信音が夜の空気を切った。裕太は俺から目を離して、スマホを取り出した。見知らぬ番号だった。
「はい」
少しの間があった。
裕太の顔から、色が消えた。
「……こちら私立病院の看護師、鈴木と申します。裕太さんの携帯でお間違いないですか。奥様の容態が急変されまして……」
裕太はそれだけ聞いて、走り出した。
俺とヒロは顔を見合わせて、後を追った。
病院に着いたとき、裕太はすでに病室の前に立っていた。看護師に何か言われて、うなずいて、ドアを押した。
俺たちは廊下で待った。
病室の中から、裕太の声が聞こえた。
「ごめん……ごめんな……俺がもっと早く気づいてれば……」
それから、しばらく何も聞こえなかった。
やがて、薄い壁越しに、女の声がした。
「裕太……ありがとう……最近、すごく優しくなったね……前の裕太に戻ったみたい……」
俺はヒロと目を合わせることができなかった。
「前の裕太」
その言葉が廊下に落ちて、消えた。
この世界の妻は知らない。今ベッドの横に座っているのが、どこから来た誰なのかを。ただ、自分の夫が変わったと感じていた。優しくなったと。戻ってきたと。
それが、何よりも重かった。
しばらくして、裕太が出てきた。
クシャクシャになった顔を下に向けて、廊下の壁にもたれた。何も言わなかった。言える状態じゃなかった。
俺は裕太の隣に立って、肩に手を置いた。
「裕太」
静かに言った。
「君の本当の家族は、元の世界にいる。病気じゃない。元気な奥さんと、娘たちが、君の帰りを待ってる」
裕太は答えなかった。
廊下の蛍光灯が、白く三人を照らしていた。どこか遠くで、ナースコールの音がした。
沈黙が、長く続いた。
俺は急かさなかった。ヒロも何も言わなかった。裕太が自分の中で何かと戦っているのが、傍にいるだけで伝わってきたから。
やがて。
裕太が、力なくうなずいた。
一度だけ。でも確かに。
「……悪かったよ」
掠れた声だった。
「言い過ぎた。心の中がぐちゃぐちゃに、すり潰されたみたいで……イライラしてた。さっき言ったことは、本心じゃない」
「分かってる」
「本当に?」
「ああ」
裕太がようやく顔を上げた。目が赤かった。大の男が、隠しもせずに泣いていた。
「カズ……お前、いつも纏めようとするのは、確かにちょっとうざいけど」
「そうか」
「でも……それがお前だよな」
俺は少し笑った。笑うしかなかった。
「一緒に帰ろう」
裕太は一度だけ、病室のドアを振り返った。
長い間、そのドアを見ていた。
それから、前を向いた。
俺は崩れ落ちそうな裕太の肩を、そっと引き寄せた。裕太は振り払わなかった。ヒロが眼鏡を直しながら、静かに二人の隣に立った。
三人で、廊下に立っていた。
蛍光灯の光の下で。
どこかで、ナースコールがまた鳴った。
第九章 最後の試み

決行の日の朝、目が覚めた瞬間から、心臓が妙な打ち方をしていた。
速いわけじゃない。むしろ、一打ち一打ちが重かった。体の奥底から、今日が普通じゃない日だと告げてくるような鼓動だった。カーテンの隙間から朝の光が差し込んでいて、埃がゆっくりと舞っていた。こんな何でもない朝の光を、俺は今日で最後に見るのかもしれない。いや、違う世界の朝の光を、という意味だが。
ソファから起き上がって、顔を洗った。
鏡の中の自分の顔が、少し老けて見えた。この数日で、何かが削れた気がする。
優香が台所に立っていた。朝食の準備をしていた。こちらに背中を向けたまま、でも昨日までの張り詰めた空気とは少し違った。俺がこの世界に来てから積み上げてきた、あの小さな積み重ねが、空気をわずかに変えていた。
「キャンプに行ってくる」
声に出したら、思ったより落ち着いた声が出た。
優香がゆっくり振り返った。
嫌な顔をしなかった。
それだけで、胸が痛かった。
「気をつけて」
短い言葉だった。でも、この数日で初めて、ちゃんとこちらを見て言ってくれた言葉だった。
「ありがとう」
俺は一歩、優香に近づいた。
その手を、そっと取った。
優香が少し驚いた顔をした。でも、拒まなかった。手を振り払わなかった。それだけで、俺の目の奥が熱くなった。
ゆっくりと引き寄せて、抱きしめた。
優香の体が、最初だけ少し固まった。それからほんの少し、力が抜けた。
その瞬間、裕太の声が頭の中によみがえった。
——何が本当で、何が偽物なんだ。
そうだ。目の前にいるのは違う世界の優香だ。でも、この温もりは本物だ。この体温は本物だ。俺の胸に顔を寄せているこの人の、かすかな息の音も、髪の匂いも、全部本物だ。
ああ、ここにいたい。
今この瞬間だけは、帰りたくないと思った。この世界に、このまま根を張ってしまいたいと思った。この優香と、もう一度やり直せるかもしれない。ユナはいないけれど、でも——。
ユナの顔が、浮かんだ。
「パパ、お仕事行かないで」
玄関でしがみついてきた、あの小さな手。あの声。あの涙。
ダメだ。
俺の居場所は、ここじゃない。
俺は腕に力を込めた。迷いを押しつぶすように。この世界の優香への罪悪感を、自分ごと絞り出すように。ギュッと、強く抱きしめた。
優香が小さく「んっ」と言った。
俺は耳元で、声にならないくらい小さく囁いた。
「さようなら、この世界の君」
「え?何か言った?」
「愛してるって言ったんだ」
優香が、俺の胸の中で小さく笑った。くすぐったそうな、照れくさそうな、でもどこか嬉しそうな笑い方だった。
「私も愛してる」
その言葉が、胸に刺さった。
刺さったまま、抜けなかった。
俺はそっと体を離した。優香の顔を、正面から見た。一秒だけ。目に焼き付けるように。それからドアに向かった。
振り返らなかった。
振り返ったら、行けなくなる気がしたから。
玄関を出て、ドアを閉めた。
外の空気が冷たかった。目の奥が熱くて、視界が少し滲んだ。俺は立ったまま、一度だけ深く息を吸って、吐いた。
それから歩き始めた。
キャンプ場に着くと、裕太とヒロがすでにいた。
二人とも、俺と同じような顔をしていた。
何かを断ち切ってきた顔。何かを置いてきた顔。笑ってもいないし、泣いてもいない。ただ、静かに消耗しているような顔だった。
三人で、しばらく何も言わなかった。
言葉が要らなかった。それぞれが、それぞれの朝を過ごしてきた。その重さは、顔を見ればお互いに分かった。
「みんな、準備はいいか」
俺は二人を見て言った。
「ああ」
裕太が短く答えた。ヒロも無言で頷いた。
その夜は、焚き火を囲んだ。
いつものように、他愛もない話をした。仕事の話、昔の話、どうでもいい話。でもどこかが違った。声が、少しだけ上滑りしていた。笑い声のタイミングが、ほんの少しだけずれていた。
俺たちは三人とも、別のことを考えながら喋っていた。
明日のこと。
この世界に残していく人たちのこと。
考えないようにするために、無理やり口を動かしていた。沈黙が来ると、その向こうに考えたくないものが待っているから。
いつもは落ち着く焚き火の時間だった。でも今夜は、炎をじっと見つめることができなかった。
少しでも焚き火に託すと、考えてしまうから。
この世界の優香のこと。今朝の、あの笑い声。「私も愛してる」という言葉。裕太の病気の妻。ヒロの、いない娘。全部が炎の向こうから滲み出てきそうで、俺たちは三人とも、焚き火から目を逸らすようにして喋り続けた。
薪が一本、崩れた。火の粉が数個、夜空に散って消えた。
「そろそろ寝るか」
誰かが言った。誰が言ったのかも、よく分からなかった。
テントに入って、寝袋に潜り込んだ。目を閉じた。眠れないと分かっていた。それでも目を閉じた。
明日の朝八時まで、あと数時間だった。

第十章 帰還

夜明け前から目が覚めていた。
眠れたのかどうか分からないまま、空が白んでいた。テントの外で鳥が鳴いていた。その声が、昨日よりずっと近く聞こえた。
六時には三人とも起きていた。誰も多くを喋らなかった。裕太が無言でガスバーナーに火を点けて、湯を沸かした。インスタントコーヒーを三つ並べた。湯気が朝の冷たい空気に溶けていった。
マグカップを両手で包みながら、俺は空を見上げた。雲一つなかった。突き抜けるような青だった。こんな空の下で、全部が終わるか、全部が戻るか、そのどちらかが決まる。
七時を過ぎた頃から、誰も口を開かなくなった。
時計の針が、八時に近づいていった。
午前八時、二分前。
俺たちは管理棟に入った。
古時計は、今日もそこにあった。カチ、コチ。カチ、コチ。最初にこれを見た朝のことを思い出した。裕太が「でっかい時計だな」と言って、ヒロが「記念写真撮ろうぜ」と言って、俺たちは何も知らずに笑いながら肩を組んだ。
あの朝に戻りたかった。
いや——あの朝のさらに前に。キャンプ場に向かう車の中で、まだ全部が普通だった時間に。優香が「気をつけて」と言って、ユナが「お土産忘れないでね」と言って、俺が「分かった分かった」と笑いながら玄関を出た、あの朝に。
針が、八時を指した。
「行くぞ」
俺は言った。
三人で古時計の前に並んだ。スマホを棚に立てかけた。タイマーをセットする指が、最初の日と同じように震えていた。でも今日は、違う意味で震えていた。怖いんじゃない。全部をここに懸けているから、震えていた。
肩を組んだ。
裕太の肩が、右側にある。ヒロの肩が、左側にある。この並び方で、何度写真を撮っただろう。小学生の頃から数えたら、もう分からないくらい撮ってきた。バカみたいな顔で笑ってるやつも、酔っ払って目が据わってるやつも、全部どこかのフォルダの中にある。
今日のこの写真は、誰にも見せない。
でも、一生忘れない。
「今度こそ」
声に出したら、思ったより静かな声だった。
カシャッ。
シャッター音が、管理棟に小さく響いた。
俺は振り子を見た。
カチ、コチ。カチ、コチ。
ヒロがスマホを構えて測った。
一秒。
きっかり、一秒だった。
「やった」
裕太が言った。叫ぶような声を想像していたが、そうじゃなかった。絞り出すような、掠れた声だった。目が赤かった。
ヒロは眼鏡を外して、指で目頭を押さえた。何も言わなかった。
俺も何も言えなかった。
ただ、振り子を見ていた。カチ、コチ。カチ、コチ。一秒。一秒。一秒。この音が、こんなにも美しく聞こえる日が来るとは思わなかった。
「行こう」
三人で管理棟を出た。
駐車場で、それぞれの車に向かいながら、裕太が振り返った。
「なあ、カズ」
「何だ」
「帰ったら、ユナちゃんに土産買って帰れよ」
「……ああ」
「俺も娘たちに何か買ってく」
裕太は笑った。泣きながら笑った。そういう顔ができるのが、こいつらしかった。
ヒロが小さく手を上げた。それだけで、全部伝わった。
俺は車に乗り込んで、エンジンをかけた。
家が近づくにつれて、息が浅くなった。
角を曲がって、見慣れた街並みが視界に入ってきた。スーパーがある。公園がある。ユナがいつも鳩を追いかける広場がある。全部、あるべき場所にある。
でも、それだけじゃ分からない。
玄関の前に車を止めた。
しばらく動けなかった。ドアに手をかけて、でも開けられなかった。もし違ったら。もしまたあの冷たい声が聞こえたら。もし写真立てが伏せられていたら。
それでも、行くしかなかった。
車を降りた。
玄関のドアノブを握った。冷たかった。深呼吸をした。
開けた。
「ただいま」
声が、廊下に吸い込まれた。
一瞬の、静寂。
その静寂が、永遠みたいに長かった。
「おかえりなさい」
優香の声だった。
弾むような、少し呆れたような、でも温かい、俺の知っている優香の声だった。台所の方から聞こえた。何かを切っている音がした。夕飯の準備をしているんだろう。こっちが今にも崩れ落ちそうなのに、優香はいつも通りだった。それが、たまらなく嬉しかった。
それから。
廊下の奥から、小さな足音が聞こえた。
パタパタパタ、という、四歳の子どもにしか出せない音。
「パパ!」
ユナが角を曲がって飛び出してきた。両手を広げて、全力で走ってきた。助走をつけすぎて、少しよろけた。それでも止まらなかった。
俺はその場にしゃがんだ。
ユナが飛び込んできた。
受け止めた瞬間、何かが決壊した。
ずっと押さえていたものが、ユナの温もりに触れた瞬間に、全部一気に溢れ出した。涙が出た。声を上げて泣いた。大人が人前でするような泣き方じゃなかった。子どもみたいに、顔をくしゃくしゃにして、声が震えて、止められなかった。
ユナが俺の首に両腕を回した。
「パパ、どうしたの?」
その声が、また涙を呼んだ。
優香が台所から出てきた。エプロンで手を拭きながら、俺の顔を見て、少し目を丸くした。
「どうしたの?」
「ちょっと……君たちがいなくなる夢を見たんだ」
声が途切れ途切れになった。情けないと思いながら、止められなかった。
優香が少し首をかしげて、それからふっと笑った。
「バカねぇ」
優しい声だった。呆れているけど、その奥に温かいものがある声。俺の知っている優香の声だった。
「大丈夫よ。私たち、ここにいるから」
優香が一歩近づいてきた。俺の頭に、そっと手を置いた。
子どもをあやすみたいな仕草だった。でも俺には、それが何よりも嬉しかった。
ユナがまだ首にしがみついていた。苺のシャンプーの匂いがした。この匂いを、ずっと探していた。
その夜、ユナが眠ってから、俺は一人でリビングに残った。
明かりを消して、ソファに座った。
窓の外に、星が出ていた。
壁の低いところに、ユナのシールが貼ってある。くまのキャラクター。端が少し浮いてきている。優香が何度剥がしても、翌日にはまた貼り直す。俺はいつもそれを見て見ぬふりをしていた。
今日初めて、それをちゃんと見た。
当たり前のように、そこにあった。
並行世界はほんの少しの違いで、こんなにも変わる。家族がいる世界と、いない世界。妻が笑っている世界と、冷え切っている世界。その分かれ目は、きっと劇的な何かじゃない。
毎朝の「いってきます」をちゃんと言ったかどうか。疲れていても夕飯の時に顔を上げたかどうか。ユナが話しかけてきた時にスマホから目を離したかどうか。そういう、数えきれないほど小さな選択の積み重ねが、気づかないうちに世界の形を決めていく。
あの冷え切った世界の優香と、今ここにいる優香。
二人の間にあったのは、そういう積み重ねの差だったんだ。
どこか一つの大きな分岐点があったわけじゃない。ただ毎日、ほんの少しずつ、相手の方を向いていたか、向いていなかったか。それだけのことが、何年もかけて、全く違う場所に二人を連れていく。
俺はその小さな一つ一つを、どれだけ雑に扱ってきたんだろう。
仕事で疲れた、という言葉を盾にして。明日やればいい、と先送りにして。子どもがいるから大丈夫、とどこかで甘えて。
でも大丈夫じゃなかった。ギリギリのところで、ユナという存在が橋渡しになって、かろうじて繋がっていただけだったのかもしれない。
ユナの部屋のドアが、少し開いていた。
隙間から、寝息が聞こえた。
規則正しい、小さな寝息。
俺はそっとドアを開けて、部屋に入った。ユナが丸くなって眠っていた。布団から片足がはみ出していた。直してやって、その頬に触れた。柔らかかった。温かかった。
明日の朝、ユナが「パパ、お仕事行かないで」と泣いたとしても、ちゃんと抱きしめてやろうと思った。一分でも、一秒でも、その子の気持ちをちゃんと受け取ってから行こうと思った。
それだけのことが、この世界を作っている。
そう、分かったから。
窓の外で、風が木の葉を揺らした。
カーテンが、わずかに揺れた。
エピローグ

あれから一年が経った。
季節は一周して、また秋になった。山の木々が色づき始めて、朝晩の空気が冷えてくると、俺は条件反射みたいにキャンプに行きたくなる。あの体験の前からそうだったが、今はその気持ちが少し違う色をしている。
逃げるために行くんじゃなくて、確かめるために行く、というような。
俺たちは相変わらず、このメンバーでキャンプに来ていた。ただ、景色が少し変わった。今日みたいにファミリーキャンプの頻度が増えた。子どもたちが走り回って、妻たちが笑って、俺たちおっさんは焚き火の前でビールを飲む。賑やかで、うるさくて、一人でいる時間なんてほとんどない。
それが、いい。
裕太が焼き立てのチキンにかぶりついた。油が滴って、ジュッという音がした。
「あの時計、本当に不思議だったよな」
口の中にものが入ったまま言った。相変わらずの裕太だった。
管理棟の古時計は、今年の春に撤去されていた。「老朽化で危険だから」というのが理由だった。訪れた時に管理棟の奥を見たら、時計があった場所だけ、壁の色が少し違っていた。長年そこにあったものが消えた跡だった。
裕太も俺も、しばらくその場所を見ていた。何も言わなかった。
「夢みたいな話だ」
ヒロが缶ビールを傾けながら言った。眼鏡の奥の目が、焚き火を見ていた。あの夜、ノートに図を書きながら並行世界の理論を語っていた目と同じ目だった。でも今夜は、何かを分析しているんじゃなくて、ただ遠くを見ていた。
「俺たちだけが知ってる話だもんな」
裕太がチキンの骨をトングで摘まんで火に放り込んだ。
「誰に話しても信じてもらえない」
「信じてもらわなくていい」
俺は言った。
二人が俺を見た。
「俺たちが覚えてる。それだけで十分だ」
しばらく、焚き火の音だけがした。薪が爆ぜて、火の粉が夜空に散った。
裕太の奥さんが子どもたちを連れてテントの方へ歩いていった。裕太がその背中を目で追った。何も言わなかったが、その横顔が、一年前と少し違った。何かを大事に扱っている人間の顔だった。
ヒロの娘が「パパー」と呼ぶ声がして、ヒロが立ち上がった。「すぐ行く」と言いながら、でも急がなかった。一歩一歩、確かめるように歩いていった。
並行世界が本当に存在するのかどうかは、今でも分からない。
あれは夢だったのかもしれない。三人が同じ夢を見るなんてあり得ないが、それ以外の説明も思いつかない。ヒロはあの後も何度か「理論的に考えると」と話し始めたが、いつも途中で止まった。言葉にすればするほど、遠ざかっていく気がするのかもしれない。
ただ、確実に言えることが一つある。
俺たちは変わった。
あの体験の前と後で、何かが静かに、でも確実に変わった。大げさな変化じゃない。毎朝「いってきます」をちゃんと言うとか、夕飯の時にスマホを置くとか、ユナが話しかけてきたら手を止めるとか。そういう、誰も気づかないような小さなことだ。
でもその小さなことが、世界の形を決める。
あの数日間で、俺はそれを骨の髄まで学んだ。
帰りの車の中で、ユナは後部座席でぐっすり眠っていた。
一日中走り回って、夕飯をたらふく食べて、風呂にも入らずに寝袋に倒れ込んで、チャイルドシートの中でも同じように眠っていた。口が少し開いている。頬が赤い。手がグーになっている。
俺はバックミラー越しに、しばらくその顔を見ていた。
この顔が、見たくても見られなかった日があった。
この名前を呼んでも、誰も振り返らなかった夜があった。
「愛してるよ」
気がついたら、口から出ていた。
「え?」
優香がハンドルを握ったまま、こちらを見た。少し驚いた顔だった。
「急にどうしたの?」
「いや、たまには言葉にしないと、と思って」
優香が前を向いた。しばらく何も言わなかった。街灯が一本、また一本と流れていった。
「私も愛してる」
照れくさそうに、でもまんざらでもない声だった。
それだけだった。
ラジオもない、静かな車内だった。ユナの寝息が後ろから聞こえていた。ウィンカーの音が規則正しく鳴った。優香の横顔が、街灯のたびに浮かび上がった。
何でもない、帰り道だった。
でも、これだと思った。
これが、俺の世界だ。
振り子の向こうには、無数の並行世界が広がっているのかもしれない。俺たちが出会わなかった世界、結婚しなかった世界、ユナが生まれなかった世界。そういう世界が、どこかに確かに存在しているのかもしれない。
でも、俺はここにいる。
この車の中に。この人の隣に。後ろで口を開けて眠っているあの子の、父親として。
それ以外の世界は、いらない。
ユナが寝言で何かを言った。聞き取れなかったが、口の端が上がっていた。きっと楽しい夢を見ているんだろう。今日走り回った野原の夢か、焚き火で焼いたマシュマロの夢か。
この幸せを、絶対に手放したりはしない。
手放さないために、大きなことをするんじゃない。ただ毎日、目の前の人をちゃんと見る。それだけのことを、続けていく。
車が角を曲がった。
見慣れた街並みが、窓の外に広がった。
もうすぐ、家に着く。
——完——
