
仕事を終え、しっぽを連れて少し遠くのキャンプ場へと向かった。
今日は、静かに過ごしたかった。人の少ない、隠れた場所で。
山道を抜け、木々に囲まれたキャンプ場に着くと、管理棟には中年の女性スタッフが一人。
「今日はお一人ですか?」
「はい、しっぽと僕だけです」
「そうですか。今日は管理棟は夜間無人になりますので、気をつけてくださいね。明日の朝8時には戻ります。それでは、楽しんでください」

彼女の言葉に軽く頷き、僕は場内を見回しながらサイトを決めた。
設営も、もう慣れたものだ。テントを張り、焚き火台を組み、薪をくべる。
火を起こすと、パチパチと心地よい音が夜の静けさに溶けていく。
しっぽは焚き火のそばで丸くなり、時折、炎を見つめるように首を傾げていた。
そのとき、視界の端に一人の老婆が映った。
小柄で、少し困ったような顔をしている。
「どうしました?」と声をかけると、彼女は申し訳なさそうに微笑んだ。
「ああ、ごめんなさい。焚き火をしようと思ったのだけど、マッチを忘れてしまって…」
「それなら、僕が火起こしを手伝いますよ」
「あら、助かっちゃったわ。ダメねぇ、年を取ると忘れ物が多くて。でも本当に助かったわ。お礼にコーヒーを淹れるわ。よかったら飲んでいって」

僕は自分のチェアを持ってきて、彼女と焚き火を囲んだ。
湯気の立つコーヒーを手にすると、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。
「ここはね、主人と来た思い出の場所なの。あの人ったらアウトドアなんてまるで興味なかったのに、急に“キャンプに行くぞー”って張り切ってね」
彼女の目が、焚き火の炎に照らされて優しく揺れる。
「でもね、数年前にガンで亡くなっちゃったの。見つかったときはもう末期でね…それからはずっと一人」

焚き火がパチンと音を立てる。
その音が、彼女の言葉の余韻を切るようで、切ない。
「最後にここに来れてよかったわ。なんだか、あの人のことを思い出せるの。今日はありがとうね」
彼女の顔は、どこか嬉しそうだった。
きっと、彼女は素敵な人と出会ったのだろう。
その人との思い出が、今も彼女の中でキラキラと輝いている。
語るその表情が、何よりの証だった。
夜が更け、僕はしっぽと共にテントに戻った。
静かな夜。風の音と、しっぽの寝息だけが耳に残る。
翌朝、管理棟に向かうと、昨日の女性スタッフが笑顔で迎えてくれた。
「昨晩はぐっすり眠れました?」
「はい、とてもいい夜でした」
「そうでしょう。ここは自然豊かですからね。昨日はあなた一人だけのお客様だったんですよ。独り占めですね」
「一人…?老婆の方がいらしたようでしたが…」
言いかけて、僕は口を閉じた。
いや、やめておこう。
きっと、あの人の“想い”がこのキャンプ場に来たのだろう。
彼女が語った“最後に来れてよかった”という言葉。
それは、彼女自身の願いだったのかもしれない。
不思議そうな顔をする受付の人を後にして、僕は帰路についた。
しっぽが、僕の足元で静かに歩いている。

あの人は、最愛の人と会えただろうか。
焚き火の向こうにいたその人は、きっと今も、誰かの心の中で灯り続けている。