
第一章 いつものキャンプ

「おーい、カズ!また俺に重いの押し付ける気だろ!」
裕太の声が響く中、俺は車のトランクからクーラーボックスを引っ張り出していた。もう...何回目だっけ、このメンバーでのキャンプ。俺たちは小学生の頃からの付き合いだ。家族ができた今でも、年に数回は集まってる。
「裕太、お前毎回それ言うよな」
ヒロが眼鏡をクイッと上げながら苦笑いした。毎回言うのは裕太なりの冗談なのだろう、そしてヒロが突っ込みを入れる所までがワンセットだ。
「カズだって仕事で疲れてるんだから」
「俺だって忙しかったんだよ!昨日も残業で……」
裕太がぶつぶつ文句を言いながらも、結局は自分でテントの荷物を運び始める。
夕方のキャンプ場。静かで木々の生い茂ったこの空間は、他にも数組の家族やグループが慣れた手つきでテントを張っていたり、火を起こしていたりと……いつもの光景。でも、なんか今日は妙に疲れてる。ユナが朝泣いてたせいなのか分からないが。
「そうだ、娘ちゃん、もう四歳だっけ?」
裕太が缶ビールをプシッと開けながら聞いた。
「ああ、ユナな。最近『パパ、お仕事行かないで』って...」
俺の声が少し震えた。あの子の涙顔を思い出すと、胸がキュッとなる。
「毎朝泣かれるとさ、こっちも泣きそうになるんだよ」
俺もクーラーボックスに手を伸ばし、キンキンに冷えたビールを取り出しプシッと開けた。
「やっぱいいよなあ、子どもがいるっていうのは」
裕太は遠くの山を見つめながらクスっと微笑んだ。
「俺のとこは娘が二人もいて、もう毎日戦争状態よ」
と言いつつも、まんざらでもない様子でどこか嬉しそうだ。
「贅沢な悩みじゃん、うちもそうなんだけど」ヒロも少し疲れた顔で微笑んだ。
「分かるぅ、でもそれが良いんだよな!」
夜が更けるまで、俺たちは他愛もない話をしていた。仕事の愚痴、嫁さんの愚痴、でも結局は家族の話になる。三十代後半になった今でも、こうして集まると学生時代に戻った気分になる。不思議だよな。
真っ赤に優しく燃えていた焚き火の炎が一筋の煙を上げた頃、ヒロがポツリと呟いた。
「そろそろ寝ようか」
「俺、明日は早めに帰らないと優香に殺される」
「俺もだ。嫁に『また男同士で遊んで』って嫌味言われてるし」
テントの中で寝袋に潜り込みながら、俺は明日帰ったらユナを抱きしめようって考えてた。あの子の苺の甘いシャンプーの匂いを思い出して。
第二章 午前八時の写真

翌朝、俺たちは管理棟で朝食を済ませていた。
「うわ、でっかい時計だな」
裕太が管理棟の奥を指差した。確かに大きな古時計が置かれてる。重厚な木のケース、ゆっくりと左右に揺れる振り子。なんか…威圧感がある。
「記念写真撮ろうぜ」ヒロが提案した。
「せっかくだし」
「いいね。毎回同じ場所で撮ってるし、たまには違うところで」
俺たちは古時計の前に並んだ。スマホのタイマーをセットして、三人で肩を組む。
「はい、チー……」
カシャッ。
写真を撮った瞬間、時計を見るときっかり午前八時だった。そして……なにか変な感じがした。なんだろう……何とも言えないが違和感と言うか……振り子の動きが、ちょっとだけ遅くなったような。
「……気のせいかな」
俺は首をかしげた。
「何が?」
「いや、時計の振り子が……」
「そんなの気にしすぎだよ」
裕太が笑いながら肩をすくめる。
「古い時計だから、そういうもんだろ?」
ヒロは、ほんの数秒ほど時計を見ていたが裕太の言葉を聞き、俺たちの方を見た。
「帰ろうか」
でも、その時はまだ分からなかった。俺たちの人生が、この瞬間から狂い始めるなんて。
第三章 消えた娘

「ただいま」
玄関のドアを開けると、優香が出迎えてくれた。でも……なんか違う。いつもなら「おかえりなさい」って言いながらせかせか動いているのに、今日はなんだか……のんびりと言うか、ふんわりしてる。こんな性格だったか?
「お疲れさま。楽しかったぁ?」
「ああ。ユナは?」
優香が口に手を当てて首をかしげた。
「ユナ?……だぁれそれ?」
は?
「いやいやいやいや、冗談だろ? 隣の部屋で寝てるんでしょ? その手にはひっかからな……」
笑いながら隣の部屋のドアを開ける。……が、いつもユナが寝ているその部屋を開けても誰もいなかった。
いないどころか全て無くなっている。
ユナの衣装ケース、ユナの布団、すごく大事にしていたおもちゃ箱でさえ、ユナに関するもの全部。
心臓が、本当に止まった。いや、止まったような感覚じゃない。実際に一瞬、鼓動が止まったんだ。
「ユナって……俺たちの娘だろ?四歳の」
「何寝ぼけてるのぉ?」
優香が困ったような、でもどこか他人事のような笑顔を浮かべた。
「私たち、まだ子どもいないでしょお?」
頭の中が真っ白になった。いや、白じゃない。何色かも分からない。とにかく、何も考えられなくなった。
ユナは確実にいた。昨日の朝も、出かける前に「パパ、お土産忘れないでね」って抱きついてきた。あの感触、あの匂い、あの笑顔。全部、全部覚えてる。
「ちょっと...外に出る」
俺は慌てて家を飛び出した。近所の公園、コンビニ、ユナがよく遊ぶ滑り台。片っ端から探し回った。でも、どこにもいない。誰も俺の娘を知らない。
携帯が鳴った。裕太からだった。
「カズ!大変なことになってる!」
「裕太も?」
「俺の娘たちがいない!嫁もいない!独身に戻ってるんだ!」
背筋に冷たいものが走った。俺だけじゃない。裕太にも同じことが起きてる。
俺は何とも言えぬ焦りからすぐにヒロに電話した。
「僕もだ」
ヒロの声は震えていた。
「娘達がいないんだよ……どうなっちまったんだ……」
話によると妻だけで娘が二人ともいないと。
「どうなってるんだ? とりあえず、キャンプ場で落ち合おう」
第四章 狂った現実
俺たちは慌ててキャンプ場に向かった。管理棟で落ち合った時、三人とも顔が青白くなっていた。
「何が起きてるんだよ……」
裕太が頭を抱えた。
「俺の家族がいないなんてありえない」
「とりあえず冷静に考えよう」
ヒロがそう言ったけど、全然冷静じゃない。声も震えてるし、手も震えてる。
「まず、原因を探そう」
「原因……原因って何だよ! そもそもヒロが時計の前で写真撮ろうって言ったからこうなったんじゃないのか?! 」 裕太が鋭い眼光でヒロを睨む。
「なぁ!? 教えてくれよ! 何が原因って言うんだよ! 俺が何かしたって言うのかよ! なぁあ! 」
裕太は勢いのままヒロの胸倉を掴んだ。彼のやり場のない怒りが伝わってくる。
「お前ら……いつも冷静ぶりやがって! 俺の家族がいないのにどう冷静になれっていうんだよ! 」
「裕太……」
「やめろ、二人とも。今はそれどころじゃない」
両手で裕太とヒロの間に割って入り二人を引きはがした。
依然ヒロを睨みつけているその裕太の目には涙が浮かんでた。俺も、もう限界だった。
「今朝、ここで変わったことがあったか?」
ヒロがもみ合いになってズレた眼鏡をクイッと戻しながら分析を始めた。
「そういえば...」
俺は思い出した。
「古時計の前で写真を撮った時、振り子が遅くなったような気がしたんだ」
三人で古時計を見上げた。確かに振り子はゆっくりと左右に揺れてる。
「スマホのストップウォッチで測ってみよう」
ヒロが提案した。左から右へ、右から左へ。一往復が1.3秒だった。
「普通は1秒のはずだ」
ヒロが呟いた。
「これは明らかにおかしい」
管理棟のスタッフに古時計について聞いてみた。
「ああ、あれは昔からあるんですよ。かなり古いもので、時々調子が悪くなることもあるんですけどねぇ、まぁ、見た目が良いでしょ? アンティークな感じがここに合うんでずっと置いてるんですよ」
「昨日の夜と今朝で、何か変わったことは?」
「さあねぇ、特には」
しかし、上を見ながら何かを思い出したように続ける。
「そう言えば……あまり関係ないかも知れませんが、ただね、たまに振り子が不自然に動くことがあったような……気のせいかも知れないですけどね」
俺たちは顔を見合わせた。
その後、何度か同じように写真を撮ったが、振り子は変化のないままゆっくりと時を刻んでいる。
「もしかして」
ヒロが口を開いた。
「時刻が関係してるんじゃないか?俺たちが写真を撮ったのは、きっかり午前八時だった」
「じゃあ、明日の朝八時にもう一度試してみよう」
その夜、俺は一睡もできなかった。ユナの笑顔が頭から離れない。『パパ、お仕事行かないで』って泣いた顔。あの涙の一粒一粒まで覚えてる。嘘じゃない。絶対に嘘じゃないんだ。

第五章 さらなる混乱
翌朝午前八時。俺たちは再び古時計の前に立った。
「今度こそ元に戻る」
手を震わせながらスマホのタイマーをセットした。
「せーの」
カシャッ。
振り子を見ると、今度は明らかに速くなっていた。0.8秒。
「もどっ……たのか?」
不安と期待を胸に、俺たちはそれぞれ帰宅した。
家に着くと、優香はいた。でも...
「あ、帰ってきたのね」
優香の声が氷のように冷たかった。振り返りもしないでキッチンで皿を洗ってる。
「ただいま」
「......」
返事がない。何これ。
「ユナは?」
「……」
完全に無視だ……俺の声が聞こえないみたいに。そして俺は気づいた。ユナの写真がない。リビングに伏せられた写真立てを見ると、あったはずのユナを入れた家族写真が、俺と優香の二人だけになってる。
ユナは、この世界にも存在しないんだ。
夕食も無言。優香は一言も口をきかない。
「優香、何か怒ってるの?」
「別に」
「でも、なんか様子が...」
「五月蠅いなぁ、疲れてるの。ほっといて」
寝室も別々だった。優香は少し苛立った様子で無言のまま別の部屋に行ってしまった。
何か心が締め付けられる思いだ。
俺は一人でリビングのソファに横になりながら、ぼんやりと一点を見つめた。何色にも染まっていない真っ白な天井が視界に飛び込んでくる。どうしてこうなっちまったんだろ……。優香の冷たい態度が、今の俺にとってはすごく堪える。一体俺は何をしているんだ、一体俺に何が起きているんだ。ああ、ユナに会いたい。帰りたい、帰ってユナを抱きしめてあげたい。
色んな感情が無理やりミキサーにかけられたように混ざり合い押し寄せてくる。
でも、優香のあの態度……きっとこの世界の俺は、最低な夫なのかも知れない。そして……ユナはいない。
携帯電話が鳴った。裕太とヒロだった。
「また変わった。でも……俺のところは……なんつーか……複雑だ」裕太の声が暗かった。
「どうしたんだ?」
「妻も娘も二人ともいる。でも、妻が病気なんだ」
ヒロも困惑していた。「僕のところは妻はいるけど、娘が一人いないんだ」
僕たちは再びキャンプ場に向かった。
第六章 並行世界の理論
「確実にあの時計が関係してる」
ヒロが紙とペンを取り出した。
「仮説を立ててみよう、一昨日の朝8:00がここだ。これが時計の前で最初に写真を撮った地点」
そう話しながら一本の線上に丸印をつけた。続けて丸印を中心に2本、3本と少しずらした方向に線を引いた。
僕たちが住んでいた世界を『1』とする。1.3秒の世界が『2』、今の0.8秒の世界が『3』。つまり、無数の並行世界が存在していて、それが未来に向かって進んでいる」
「で、あの時計で移動できると?」
「そうだ。午前八時きっかりに、古時計の前で写真を撮ると、並行世界を移動する。そして振り子の速度が、どの世界にいるかを示している」
ヒロは続けて話す。
「並行世界はまだいくつもあるはずだ、この3つだけじゃなく無数に」
そう言いながら丸を中心にいくつもの線をひいた。
「じゃあなんで俺の家族がいなくなったり、急に病気になったりするんだ?」
裕太が訝し気な目でヒロを見る。
ヒロは紙とペンを置き横に置いてあったペットボトルに手を伸ばした。
その後、おもむろにテーブルの上に置いてあるスキレットをひっくり返し、そこに水を垂らした。
「もう一度やってみる」
再び水を垂らすと、前とは違う軌跡を描いた。
「同じタイミングで水を垂らしても、軌跡は違う。並行世界も同じだ。何百、何千とある世界の中で、僕たちが出会って、結婚して、子どもが生まれるというイベントが起こる世界に戻らなければならない」
俺は何となく理解し始めた。
「つまり、振り子が1秒ちょうどの世界が、俺たちの元いた世界?」
「その通りだ」
裕太の目に光が宿った。
「じゃあ、1秒になるまで何度でも試せばいいじゃないか」
でも、ヒロの表情は暗かった。
ヒロはおもむろに先ほど書いた紙に手をやり、それを丸印を中心にくるりと丸めた。それは印を頂点とした円錐だ。
ヒロは眼鏡をクイッと上げさらに話出す。
「あくまで仮説だが……もし写真を撮った地点を中心に考えるならば問題がある。時間が経つにつれて、この円錐のように並行世界間の距離が広がっていく。つまり、元の世界に戻れなくなる可能性がある」
「僕の子供がいなくなったり、1人戻っていたり、それはそういうイベントが無かったからだ。裕太に関しては奥さんと出会うイベントすら起きなかったんじゃないか」
ヒロは続けて話す「移動を繰り返しているとそのイベント自体が違うものになってしまう」
裕太の顔が青ざめた。
「どうすればいいんだ」
「ランダムに移動してるわけじゃないと思う。何かパターンがあるはずだ」
俺たちは家を出てからキャンプ場に来るまでの行動を詳しく話し合った。
すると、共通点が見つかった。
「家を出る時、俺は優香とユナを抱きしめた」
「俺も嫁と娘たちをハグした」
「僕もだ」
ヒロが頷いた。
「もしかしたら……それが鍵になるかもしれない。最初と全く同じ行動を取れば、元の世界に戻れるかもしれない」
裕太とヒロの目には光が宿る。だが俺の目は曇っていた。
「す……すまん、問題がある」
二人がこちらを向く。
「この世界の優香は俺を避けてる。ハグなんてとてもできない」
「どういうことだ?」
ヒロが訝し気に聞く。
「なんて言うか……会話はおろか……離婚寸前な感じ」
裕太とヒロが互いに顔を見合わせる。
そして、目線を俺に向けた。
「なんとかしてハグはできないのか?」
「今のままじゃできない……と思う」
「ハグをしないで移動したらどうなるんだ?」
裕太がヒロの方に目線をやる。
ヒロは裕太の問いに答えずに紙を見ながら続けた。まるでヒロ自身が自分に問いかけるように。
「僕たちが戻りたい世界が1秒だ。そして今いる世界が0.8秒。仮にそのまま移動を繰り返して0.1秒まで行くとする。その先は?」
「振り子が止まる」
横から裕太が答える。
「振り子が止まるとどうなるのか。時間が進まない。つまり僕たちは存在しないんじゃないか?」
ヒロの声に緊張が走る。
「じゃあ今度は1.3秒から遅い世界に行くとしよう。この紙のように、円錐の頂点が点ではなく丸だった場合、元いる世界から離れすぎている。つまり本来の妻や子どもとは全くの別人になっている可能性が高い。そこまで行くと……」
「そこまで行くとなんだよ?」
俺は焦りから答えを求めた。
ヒロは少し躊躇いながらも何かを確信した様子で答えた。
「……もう戻れない気がする」
「じゃあどうすれば……」
ヒロは焦りが入り混じった眼光で俺を見た。
「カズ、なんとかするんだ」

第七章 妻の心を取り戻す大作戦決行

その日から、必死に優香との関係を修復しようと努力した。
毎朝コーヒーを入れて枕元に置く。好きだった花を買って帰る。ちょっとした気遣いをする。まるで結婚する前の付き合ってた頃のように。
そう思うと、元々いた世界では、結婚して新鮮さがなくなったとはいえ、もっと大事にするべきだったと。
この世界の優香には、最初は無視されていたが、三日目あたりから少しずつ変化が見えた。
「ありがとう」
小さな声だったが、優香がお礼を言った気がした。
「え?」
「……」
声が小さくてよく聞き取れなかったが、多分あれはお礼だ。俺は心の中で小さなガッツポーズをした。
五日目、話しかけても少し答えてくれるようになった。
七日目、優香が俺と同じテーブルで夕食を食べるようになった。
九日目、優香が小さく微笑んだ。
「最近、変わったね」
「どこが?」
「優しくなった。前は仕事ばかりで、私のことを見てくれなかった」
この世界の俺は、家族を大切にしていなかったのか。
「ごめん。これからは変わるよ」
「本当に?」
「本当だ」
その夜、久しぶりに優香が隣で眠った。
第八章 裕太の葛藤

決行の前日、裕太が爆弾発言をした。
「ああ……すごく言いづらいんだが……ヒロ、カズ、すまん! 俺はずっとここにいるよ」
「何を言ってるんだ」
「この世界にも妻と娘がいる。病気だけど、一緒にいることができる。この先元の世界に戻れる保証はないだろ?」
「でも、それは本当の君の家族じゃない」
本当の家族じゃないと言われて裕太の目に怒りが灯る。
「何が本当で何が偽物なんだ?どの世界でも俺は俺だし、家族は家族だ」
ヒロと一緒に必死に説得したが、裕太は頑として聞かなかった。
「そもそも元の世界に帰ったらどうなるんだ?この世界の妻と娘はどうすりゃいいんだよ?」
俺とヒロはすぐに言い返せず目をそらした。
だが、ヒロが顎に手を当てながら上を向き答える。「元々この世界にも僕たちはいたじゃないか、現に写真とかあるし……」
「つまり……僕らがここにきて本来いる自分と入れ替わっている、よくドッベルゲンガー現象とか言うけどそうじゃなかったんだ、一つの世界に同じ人は一人しか存在できない、現に自分に会っていないだろ?」
「じゃあ俺たちがいなくなるとどうなるんだ?」
裕太はヒロを見ながら疑問をぶつける。
「僕たちが来る前の状況に戻る、厳密に言うとここで僕たちが行動して未来を変えているかもしれないけど……」
「な!裕太、もう帰ろう、ちゃんと自分の世界に俺たちは帰らなきゃいけないんだ」
裕太は少しうつむいて考えていた。
が、目に確かな決意を込めて言い放つ。
「俺は……帰らねぇ……ここにいる」
「裕太! いい加減にしろよ!」
俺は裕太の肩を掴み叫んだ。分かってほしいという気持ちがギュッと強く握ってしまう。
裕太は俺の手を払いのけ、鋭い眼光でこちらを睨みつける。
「いい加減にするのはお前だ、もうほっといてくれ、大体いつもお前が纏めるのは気にくわねぇ」裕太が爆発した。
「何でもかんでもお前のペースで決めやがって!」
「何だと?」
俺も頭に血が上って気づくと裕太の胸倉を掴んでいた。ヒロが間に入って止めようとしたが、収まらない。
もみ合いになり、俺も声を荒げた。
「俺だって家族が心配なんだよ!」
「じゃあ一人で帰れよ!」
その時、裕太の携帯が鳴った。その電話に出ると裕太の顔が青ざめた。
「こちら私立病院看護士の鈴木です。裕太さんの携帯で間違いないですか?奥様の容態が急変しまして……」
裕太は慌てて病院に向かった。俺とヒロも後を追った。
病院で、裕太は妻のベッドの前で泣いていた。
「ごめん、ごめん。俺がもっと早く気づいていれば……」
妻は弱々しい声で言った。
「裕太……ありがとう……最近すごく優しくなったね……前の裕太に戻ったみたい……」
裕太はハッとした。
病室から出た裕太は、クシャクシャになった顔を隠すかのように俯いたまま長い間黙っていた。
俺は裕太の肩に手を置き、
「裕太、君の本当の家族は元の世界で待ってる。病気じゃない、元気な奥さんと娘たちが」
裕太は答えない。
沈黙が空間を支配する。
だが、自分自身を説得しようと必死なのか、無理やり納得しようとしていたのか、裕太は力なく頷いた。
「悪かったよ、言い過ぎた。心の中がぐちゃぐちゃにすり潰されたみたいでイライラしてた。さっき言ったことは本心じゃない」
「わかってる」
「一緒に帰ろう」
今にも崩れ落ちそうな裕太の肩をそっと抱きよせた。
第九章 最後の試み

決行の日、朝から俺は緊張していた。
優香に「キャンプに行ってくる」と告げると、今度は嫌な顔をされなかった。
「気をつけて」
「ありがとう」
俺は優香の手を引きそっと抱きよせた。今度は拒まれなかった。
ふいに頭の中を裕太の言葉がよぎる。
”何が本当で何が偽物なんだ?”
確かに目の前にいるのは違う世界の優香だ、顔も声もこんなにもそっくりなのに……。ああ、俺もここにいたい、今この瞬間はすごくしあわ……
ユナが頭の中をよぎった。ダメだ、やっぱり戻らなければいけない、本当の自分の居場所へ。
俺は自分の中の迷いと、この世界の優香に対する罪悪感を消すかのようにギュッと強く抱きしめた。
小声で囁く。
「さようなら、この世界の君」
「え?何か言った?」
「愛してるって言ったんだ」
優香が微笑んだ。
「私も愛してる」
俺は涙をこらえながら家を出た。
キャンプ場では、裕太とヒロも同じような表情をしていた。
迷い、悲しみ、罪悪感、全てを押し殺して俺は二人を見た。
「みんな、準備はいいか?」
「ああ」
その夜は、いつものように他愛もない話をした。でも、心の奥では皆、明日への不安と、この世界に残していく人たちのことを考えないようにするために、無理やりしゃべっていた気がする。
いつもは落ち着く焚き火の時間、だが今日はそれが怖かった。
少しでも焚き火に託すと、考えてしまうから。

第十章 帰還

午前八時。
古時計の前で、俺たちは最後の写真を撮った。
「今度こそ」
カシャッ。
振り子を見ると、きっかり1秒で揺れていた。
「やった!」
俺たちは慌てて帰路についた。
家に着くと、いつもの優香がいた。しっかり者で、少し心配性で、でも温かい、俺の愛する妻。
「おかえりなさい」
優香の足元から声がした。
「パパ!」
ユナが駆け寄ってきた。四歳の、俺の愛する娘。
二人を抱きしめると、今まで必死に我慢していた感情が一気に溢れ出した。涙が止まらない。まるで幼い子供のように、顔をくしゃくしゃにして泣いた。
「どうしたの?」優香が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。
「ちょっと、君たちがいなくなる夢を見たんだ」
「バカねぇ、大丈夫よ。私たち、ここにいるから」
優香は少し嬉しそうに微笑んだ。
その夜、俺は改めて思った。平凡な日常こそが、何よりも尊いものなのだ。
並行世界を旅して分かったことがある。家族と過ごす何気ない時間、娘の寝顔、妻の笑顔。そんな当たり前のことが、実はこの世で一番大切な宝物だったのだ。
明日からは変わろう。仕事だけに追われず、家族ともっと時間を過ごそう。ユナが大きくなる前に、たくさんの思い出を作ろう。
ベッドで眠る娘の寝顔を見ながら、俺はそっと誓った。この幸せを、二度と当たり前だと思わない、と。
エピローグ

あれから一年が経った。
俺たちは相変わらずキャンプに行っている。今日みたいにファミリーキャンプの頻度は増えたが。
そう言えばあの管理棟の古時計は撤去されていた。
「老朽化で危険だから」というのが理由だった。
「あの時計、本当に不思議だったよな」と言いながら裕太は焼き立てのチキンにかぶりついた。
「夢みたいな話だ」
ヒロも頷きながらビールを一口飲む。
しかし、俺たちの心の中には、あの体験がしっかりと刻まれている。
並行世界が本当に存在するのかどうかは分からない。だが、確実に言えることがある。
俺たちは、今この瞬間の幸せを、前よりもずっと大切にするようになった。
当たり前のような日々が、実はどんなに貴重なものか。それを身をもって知ったからだ。
キャンプから帰る車の中で、俺は後部座席で眠る娘を見て微笑んだ。そして隣で運転する優香に向かって言う。
「愛してるよ」
「急にどうしたの?」優香が少し照れくさそうに笑った。
「いや、たまには言葉にしないと、と思って」
「私も愛してる」
優香はまんざらでもない微笑みを浮かべ一瞬だけ俺の方を見た。
後部座席では、ユナが寝言で何かを呟いている。
きっと楽しい夢を見ているのだろう。
その寝顔を見ながら、俺は思った。
この幸せを、絶対に手放したりはしない。
振り子の向こうには、無数の世界が広がっている。
でも、俺たちの世界は、ここだけなんだ。
—完—